春慶寺は、京成線押上駅のA2番出口を出ると目の前にあります。もっともビル内にありますが。
春慶寺は元和元年(1615)に鳥越(浅草森田町の地)に創建されました。
創建されてまもなく400年位なるという古いお寺です。
その後、寛文7年(1667)に浅草から本所押上村に移転しました。
江戸時代から「押上の普賢さま」と称され、特に辰年巳年の守り本尊として多くの参詣人で賑わっていました。
押上という地名は隅田川沿いで土や砂が堆積してきたので押上という地名になったとそうです。
お寺の縁起によると、現在安置されている普賢大菩薩は、百済の聖明王が霊夢によって自ら模像したものを、推古天皇の10年(602年頃)に、百済から の観勒法師が守護して 日本にもたらしたもので、当時の摂政であった聖徳太子に預けられたものといわれています。
この立像は、約10cmという小像だそうです。
春慶寺に普賢像が祀られたのは、江戸時代の寛保2年(1742)のことで、以後「押上の普賢さま」として人々に親しまれています。
というのが寺伝ですが、墨田区の説明では、製作年代は室町時代前期と考えられると書かれています。
この普賢菩薩様が開帳されるのは、正月3日間と1月5月9月の24日だそうです。日頃は未公開だそうです。
それもそうだと思います。寺伝では推古仏の仏様ですから。
百済から到来した普賢菩薩が日頃未公開ですので、ビル1階に普賢堂が設けられていて、そこにお前立の普賢様がいらしゃいます。
ここちらの仏様は江戸時代の作だそうです。 左上の写真がお前立の普賢菩薩様です。
普賢菩薩は、6本の牙をもった白象に乗っています。
6本の牙は六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)つまり人間の身心を、白い色は清浄(しょうじょう)をあらわしているそうです。
【鶴屋南北の墓】
春慶寺は「東海道四谷怪談」の作者として有名な、四世鶴屋南北の菩提寺でもあります。
鶴屋南北のお墓は、元のお墓は戦火をあびてこわれていますので、その下に再建されたお墓があります。写真中央にあるのが再建された現在のお墓です。
そのお墓の右脇にあるのが宇野信夫さんの建てた碑で
なつかしや本所押上春慶寺鶴屋南北おくつきところ と書かれています。
「おくつき」は漢字で書くと「奥津城」でお墓を意味します。
鶴屋南北は、江戸乗物町(中央区本町4丁目)日本橋の紺屋の伊三郎の子として生まれました。
安永5年(1776)初代桜田治助に入門し、文化8年(1811)56歳の時に、四世鶴屋南北を襲名し、その後、名声をほしいままにしました。
文政12年(1829)11月27日に74歳で亡くなった南北の葬儀は翌年1月13日に春慶寺で盛大にいとなまれました。
深川の黒船稲荷の自宅からこの寺まで、裃をつけた役者衆の長い葬列が続き、参列した大勢の人々には、竹皮に包まれた団子がふるまわれ、生前にあらかじめ書き上げた自らの葬いをめでたい萬歳に仕立てた「寂光門松後萬歳」(しでのかどまつごまんざい)の台本が配られたそうです。
鶴屋南北の遺骨は現在も春慶寺にあるます。下見の際には特別にお骨にお参りさせていただきました。
齋藤ご住職ありがとうございました。
【岸井左馬之助寄宿之寺】
池波正太郎氏の小説『鬼平犯科帳』には、長谷川平蔵の幼な友達として岸井左馬之助という人物が登場します。
春慶寺はこの鬼平の親友である岸井左馬之助が寄宿している先として設定されています。
そのため、「岸井左馬之助寄宿之寺」という碑が、玄関の左脇に建てられています。
鬼平犯科帳では、江守徹が、岸井左馬之助を演じているので、江守徹さんの書で、除幕式には、江守徹さんがこられたそうです。
なお、世界のホームラン王の王さんの実家は押上で「五十番」というラーメン屋でした。
その「五十番」は春慶寺の境内にあったと聞いていましたので、齋藤住職にお尋ねしたら、現在、玄関の脇の駐車場となっている場所にあったとのことでした。
赤印が春慶寺です。押上駅のA2番出口の目の前です。