水野家が肥前唐津藩に移封された後、岡崎には松井松平家の松平康福(やすよし)が下総古河藩より入りました。
この時の転封は、古河藩の松平家が岡崎に、岡崎の水野家が唐津藩に、唐津藩の土井家が古河藩という「三方領地替え」でした。
松井松平家は、もともと、松井氏といいました。
松井氏は、はじめ東条吉良氏に仕えていました。その後、東条吉良氏に姻戚関係を持った松平氏に属しました。この時の当主である松井忠次は徳川家康から信任され、松平姓を許されるとともに「康」の字を与えられ松平康親となりました。以後、松井忠次の系統は、松井松平家と呼ばれようになりました。
松平康福は、松平康豊の長男として生まれ、幕府では、奏者番、寺社奉行、大坂城代をへて、老中にまで出世します。
天明元年(1781)、老中首座松平輝高が在任中に死去した後は、老中首座となります。
封地は、康福一代の間に、浜田から古河、さらに岡崎と変わり、明和6年(1769)には岡崎から再び浜田に戻るというようにめまぐるしく変わる移封を経験しています。
松平康福は、田沼意次と親密であり、娘を意次の子田沼意知に姻がせていますし、天明6年(1786)の田沼意次失脚後も松平定信の老中就任に最後まで抵抗した人物です。
ただ岡崎藩主としては、康福の在藩期間は1代7年ほどの短い間であり、老中として幕政に参与していたことから、藩政の治績はほとんどありません。
松平康福が浜田に移封された後には、浜田藩の本多忠粛(ただとし)が岡崎に5万石で入りました。
つまり、岡崎藩と浜田藩の藩主が入れ替わったことになります。
新しく岡崎藩主となった本多忠粛は、四天王の一人本多忠勝の子孫です。
右写真は、岡崎城内にある本多忠勝の銅像です。
本多家の藩主は、その後、第2代忠典、第3代忠顕、第4代忠考(ただなか)、第5代藩主忠民(ただもと)と続き、第6代忠直の時に明治維新を迎えました。
本多忠勝系統の本多家は名門でした。
しかし 上総国大多喜藩→伊勢国桑名藩→播磨国姫路藩→大和国郡山藩→陸奥国福島藩→播磨国姫路藩→越後国村上藩→三河国刈谷藩→下総国古河藩→石見国浜田藩→三河国岡崎藩と移封を繰り返しまた。
これにより財政が窮乏し、さらに自然災害がこれに輪をかけて襲いかかりました。
そのため、本多家歴代岡崎藩主は財政難に悩まされました。
第5代藩主本多忠民は、讃岐高松藩主松平頼儀の四男として生まれ、本多忠考の養子となり、天保6年(1835)に家督を継ぎました。
その後、寺社奉行、京都所司代、老中と幕府の要職を歴任しました。
京都所司代時代には、老中の堀田正睦とともに条約締結問題で朝廷対策に奔走しました。
以上見たように、岡崎藩の歴代藩主は全て譜代大名であり、徳川将軍家からの信任の厚い人物が歴任しました。