今日は、武家諸法度について書いてみます。
武家諸法度は、慶長20年(1615)7月7日に発布されました。まだ家康が存命中であり、家康が実質的な制定者ですが、秀忠の名で出されています。
この日、全国の諸大名が、伏見城(右写真は現代の伏見城)に集められ、秀忠付年寄の本多正信から発令が発表され、崇伝が読み上げました。
家康は、二条城にいました。秀忠による発令であることを明確にするためでした。
また、武家諸法度発令前、諸大名に法令を発令する際には、諸大名が誓約する形式をとっていましたが、武家諸法度は、諸大名が誓約するに形式はとらず、読み聞かせるだけという一方的な通告となっていて、将軍の権力が強くなったことが表れています。
武家諸法度は13条からなっています。
武家諸法度の内容は、次の通りです。
第1条 文武弓馬の道、専ら相嗜むべきことと文武の奨励を定めています。
第2条 群飲佚遊(ぐんいんいつゆう)つまり遊楽の禁止
第3条 法度に背いた犯罪者隠匿の禁止
第4条 反逆者・殺害人の領外追放
第5条 他国人を領内に置くことの禁止
第6条 居城の補修の届け出と新城の禁止
第7条 隣国の新儀・徒党の届け出
第8条 無断婚姻禁止
第9条 参勤作法の指示
第10条 衣装の規制
第11条 乗輿(じょうよ)の制限
第12条 倹約の奨励
第13条 政務にふさわしい人材の選任
この武家諸法度は、大名統制に大きな役割を果たします。
秀忠が行った代表的な改易処分としては、外様大名の福島正則の改易があります。
この福島正則の改易は、かってに居城の広島城の修復工事を行ったというもので、武家諸法度の第6条に違反したためとなっています。
また、第13条は「国主は政務の器用を選ぶべきこと」とされていて、幕府が大名の改易や領国支配に介入する場合にもっとも威力を発揮しました。
なお、武家諸法度は、幕末まで、将軍が替わるごとに発布されました。