もう100日しかありません。いやいやまだ100日もあります。
昨年悔しい思いをした方、今年チャレンジする方、いろいろな思いがあるとは思いますが、ぜひ頑張ってください。
このブログも、今年のお題「徳川将軍15代」について中心に書いていますが、これから毎日書いていっても15代慶喜まで書けるか不安な日数になりましたが、読んでいただいている方のため、できるだけ多く書こうと思います。
そのため、散歩や食べ物の記事は少なくってしまうと思います。
ゴールデンウィークにいった彦根や吉良の記事はまだ書いていません。また、毎日文化センターの大江戸散歩で歩いた場所のご紹介もできていません。
これらは、検定試験が終了したら書きますので、しばらくご容赦ください。
しばらくは「徳川将軍15代」の記事を続けます。
そんなことで、早速、今日からは5代将軍綱吉について書いていきます。
綱吉は、正保3年(1646)丙戌(ひのえいぬ)正月8日に江戸城本丸で生まれました。幼名は徳松と名付けられました。
家光には、4人の男子がいました。
長男は竹千代(後の家綱)、次男長松(後の綱重)、三男亀松(早世)、四男徳松(後の綱吉)、五男鶴松(早世)です。
竹千代は将軍世継と決まっていましたし亀松と鶴松は幼くして亡くなったため、同じような境遇であったのは長松でした。
長松は、徳松の2歳上で 年に生まれました。しかし、家光が40歳の時の子で「四十二ノ御二ツ子」を忌む慣習のため家光の姉千姫(天樹院)の養子として育てられたことは以前書きました。
この長松と徳松に対して、家光はなくなる直前の慶安4年(1651)に15万石を駿河・甲斐・上野・信濃・近江・美濃六ヶ国のうちで与えました。
家光死後の遺物の贈与も二人は平等でした。二人の母に対しても家光遺物として2000両ずつ与えられました。
承応2年(1653)に家綱が右大臣に就任した際に、二人はともに従三位中将に任じられました。
そして松平の性と綱の字を与えられ、それぞれ長松は松平左馬頭綱重、徳松は松平右馬馬頭綱吉と名乗りました。
明暦3年(1657)の明暦の大火で竹橋の屋敷が焼失した長松は新たに造営された桜田屋敷に移りました。 また同じように竹橋に屋敷を与えられていた綱吉も明暦の大火で屋敷が焼失したため、新たに造営された神田屋敷に移りました、
寛文元年(1661)閏8月には綱重は甲府、綱吉は館林に、それぞれ城と10万石の加封を受けました。
このように家光の死の直前がら、綱重・綱吉兄弟は同じように扱われてきました。そして、それぞれ甲府宰相、館林宰相と呼ばれたり、二人の官職名(左馬頭、右馬頭)から「両典厩(りょうてんきゅう)」と呼ばれました。
綱重・綱吉の兄弟は、将軍家の兄弟として格別の待遇をされました。しかし、、両家は将軍家から家臣が派遣され藩政が運営されていて家臣の圧倒的多数は江戸に住んでいました。
また、綱吉自身が館林に入ったのはたった一度で、寛文3年4月に日光を参詣した帰りに入城しただけでした。
また、人事権についても幕府老中と相談しながら行使するという状態だったようです。
このように、綱吉も綱重も大名とはいいながら、将軍家からの自立の程度は低いものでした。