9代将軍家重は言語不明瞭であったことは有名な話です。
そのため、側に仕える人たちも苦労しました。この家重の言葉を唯一理解できたのが大岡忠光でした。
大岡忠光は、有名な大岡越前守忠相と同じ一族出身で、16歳の時に家重の小姓となり、それからずっと家重に仕えたことから、家重の不明瞭な言葉を理解するようになりました。
将軍の考えを理解してそれを伝えることができるのが大岡忠光だけとなると老中たちとの仲介役を務めているうちに自然と重用されるようになりました。
最初300石でしたが、享保12年(1727)従五位下出雲守に叙任され、享保18年500石加増され800石となりました。
さらに、延享3年(1746)御側御用取次となり、1200石加増され、寛延元年(1748) 3000石、宝暦元年(1751)5000石と加増を重ねられ、ついに上総国勝浦1万石の大名となりました。
宝暦4年には若年寄に昇進し5000石加増、次いで宝暦6年には、将軍吉宗のとき廃止された側用人が復活してこれに任ぜられ、側用人に就任して、岩槻2万石の城主となりました。
大岡忠光は、一族の大岡越前守忠相などにも政治に対する身の処し方を聞き、大局の判断を誤らないようにしていました。
しかし、側用人の権威がしだいに強くなって、それが老中をもしのぐようになってきました。これが次の田沼意次につながっていきます。
さて、大岡忠光が治めた岩槻城は長禄元年(1457)に扇谷上杉氏に仕えていた太田道真・太田道灌父子が敵対関係にあった古河公方の足利成氏に備えて築城したのが始まりとされていましたが、最近は、古河公方方の成田正等により築城されたという説が有力となっています。
その後、後北条氏の台頭で扇谷上杉氏は滅んだが、その旧臣である太田資正は後北条氏に対して抵抗を続けましたが、岩槻城は後北条氏の支城となり、後北条氏は岩槻を重要な城と見なしていました。
そして後北条氏滅亡後、関東に入府した徳川家康も岩槻を重要拠点のひとつと考え、譜代の家臣で岡崎三奉行の一人であった高力清長が2万石で城主となりました。
その後も、老中の青山忠俊が入り、さらに阿部正次が入り阿部家が5代続きます。その後は、岩槻は重要な藩であるがため、老中などの重臣が藩主となったため、板倉家、戸田家、松平家、小笠原家、永井家と藩主が頻繁に変わりました。しかし、永井家の後に若年寄である大岡忠光が藩主となりようやく落ち着き、岩槻藩は大岡家の8代の藩主が続き後明治を迎えました。
岩槻城の跡は、現在は岩槻城跡公園となっています。
江戸時代の名残りを残すものとしては、黒門があります。(最上段写真)
黒門が岩槻城でどこにあったかは不明ですが、三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高いと思われています。
また、「時の鐘」が、岩槻城の近くに残されています。
「時の鐘」は、寛文11年(1671)に岩槻城主阿部正春が城下町に時を知らせるために設置しました。
現在の鐘は、享保5年(1720)に城主永井直陳(なおのぶ)が改鋳させたもので、現在も、朝夕6時と正午に鐘が衝かれています。