東京メトロ「東銀座」駅からですと、4番出口を出て徒歩2分ほどの距離にあります。
「でんぱつビル」のあたりに、佐久間象山の私塾がありました。
今日は、この「佐久間象山塾跡」の説明をします。
佐久間象山は、信濃国松代藩の藩士でした。
佐久間象山は初め江戸に出て、「言志四録」を書いた著名な儒学者佐藤一斎に入門し儒学を修めました。
天保10年(1839) 神田お玉ヶ池付近に私塾「象山書院」を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。
天保12年(1841)、象山が仕える松代藩の藩主・真田幸貫(さなだ ゆきつら)が老中となり海防掛に任ぜられたことにより、佐久間象山の進むべき道が変わりました。
真田幸貫は松平定信の次男で、真田幸専(ゆきたか)の養子となり、文政6年(1823)に家督を継ぎ10万石を領した。藩政改革を実施し名君と言われました。
真田家は外様ですので、本来は老中に就任できませんが、幸貫は松平定信の子供であったため、老中に就任することができました。
幸貫は海防掛となったため、佐久間象山に西洋兵学や西洋砲術を学ぶよう命令しました。
そこで、象山は天保13年(1842)9月に江川太郎左衛門英龍に入門し西洋砲術を学びました。
江川太郎左衛門のもとで、西洋砲術を学んだ佐久間象山は、嘉永3年(1850)7月、深川小松町(現在の永代1丁目)の真田家下屋敷で塾を開き西洋砲術を教えました。このころ、勝海舟も入門しました。
佐久間象山の奥さんは勝海舟の妹ですので、佐久間象山と勝海舟は義理の兄弟となります。
嘉永3年(1850)12月、いったん松代へ帰藩しますが、翌年の嘉永4年(1851)に再び江戸へ出府しました。
そして、当時木挽町といっていた場所で砲術塾を開きました。
嘉永6年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(佐久間象山のこと)の名が見られるそうです。
この塾は20坪程の規模で、常時30~40人が学んでいたといいます。
象山の門下には、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助(つぐのすけ)、小林虎三郎など幕末に大いに活躍する優勝な人材が集まりました。
坂本龍馬も門人で、坂本龍馬が嘉永6年(1853)に江戸へ最初の剣術修行に出た際に象山に入門したそうです。
このように有能な人材で栄えていた佐久間象山塾も、嘉永7年(1854)に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命じられて塾も閉鎖されました。
吉田松陰は外国の実情を知るために、ペリーが再来航した機会に、ペリー艦隊の船で、アメリカに渡航しようと考えますが、ペリーが許可しなかったため、密航に失敗したのでした。
この件については、以前に書いてありますので 「吉田松陰密航」 をごらんください。
赤印が「佐久間象山塾跡」の説明板です。