そのセブンイレブンの先にあるのが「箕田八幡神社」です。第一京浜から少し奥に入り、石段を上った上に社殿があります。
箕田八幡神社は、和銅2年(709)に、牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか】(現在の白金近辺)というところに、東国鎮護の神様としてまつられました。鎮座後1300年が経つという大変歴史のある神社です。
その後、寛弘8年(1011)に、武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座されました。
この辺りは、源頼光の四天王一人として有名な嵯峨源氏の渡辺綱が誕生した地との伝説があります。
綱町三井倶楽部の中には渡辺綱の産湯の井戸といわる古井戸が残されています。また、江戸時代には「綱町」とも呼ばれていました。
こうしたことから御田八幡神社は渡辺氏の氏神として崇拝され、渡辺綱にちなんで俗に「綱八幡」と呼ばれました。
そして、江戸幕府が開かれた後、別当寺の僧快尊が元和5年(1619)に占いにより現在地に造営を開始し、寛永5年(1628)に遷座したといいます。
明治になり神仏分離により別当僧が神主職に就いたそうです。
明治2年9月稗田神社と称した後、明治7年に三田八幡神社と改称し、さらに明治30年三田を御田の旧名に復し御田八幡神社と称するようになりました。
元々「御田」と書いたのが「三田」と書かかれるようになったのは、宮司の水野様のお話では、御田のふりがなとして「ミタ」とふっていたのが、いつしか「三田」と書かれるようになり、「三田」が一般化したとののことでした。
ですから、本来は「御田」なのだそうです。
昭和20年5月に、米軍による空襲により、江戸時代のご社殿を焼失し、昭和29年に、本殿、幣殿・拝殿・神楽殿・社務所が再建されました。
平成21年には鎮座して1300年を祝う大祭が行われました。
この御田八幡神社は、赤穂浪士引き揚げ時のエピソードがあります。
赤穂浪士の引き揚げの途中で、この御田八幡神社の前で、高田郡兵衛が現れ、お祝いを述べたと言われています。
しかし、高田郡兵衛は江戸急進派の一人でありながら、討ち入りから脱落したため、赤穂浪士一行は無視したそうです。
25.9.11追記
赤穂浪士を預かった細川家の「堀内伝右衛門筆記」には、このことが詳しく書かれています。
高田郡兵衛が現れた時、赤穂浪士一行は無視しましたが、堀部弥兵衛だけが討入りが成功し吉良上野介の首を泉岳寺に持っていくところと話すと、郡兵衛は、安堵されたことでしょう。私も御田八幡に討入りの成功を祈願するために立ち寄ったのですと答えた。
その後、郡兵衛は、酒を持って泉岳寺に現れたが、酒を返すように門番に伝えたという。
これに関して、御田八幡神社の宮司の水野様が言うには、赤穂浪士一行は御田八幡神社の前を通らなかったのではないかというふうに言っていました。
その理由は、御田八幡神社の上を通った方が、人が少なくかつ泉岳寺に近いという点、それに神様は血の穢れを嫌うので、生首を持って、神社の前を通ることはなかったのではないかというものです。
確かに、元禄時代には服忌令という法令が発令されて、けがれについては大変厳しく決められたという時代でもありますので、そうしたことが考えられると思いました。
赤印が御田八幡神社です。