松陰、死罪となる(八重の桜 第5回「松陰の遺言」)
 今日の「八重の桜」では、吉田松陰が逮捕・処罰される場面がでてくるようですので、吉田松陰が死罪になるまでについて書いていきます。

 安政の大獄では、大勢の人が、死刑。遠島などの処罰を受けていますが、その中で、最も有名で最も大きな 影響を与えたのが吉田松陰でしょう。

 吉田松陰は、アメリカへの密航失敗により投獄された後、国許蟄居となります。
 長州藩では、萩の野山獄に投獄したのち、実家の杉家で蟄居させました。
 この蟄居の間に、叔父が開いた松下村塾で多くの子弟を育成しました。
 松下村塾四天王と呼ばれる高杉晋作、久坂玄随、吉田稔麿(としまろ)、入江九一はじめ多くの子弟が育ちました。
c0187004_9421826.jpg そして、松下村塾で子弟教育を始めて2年半あまり後の安政5年(1858)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結し、その後、将軍継嗣を紀州藩主徳川慶福とし、さらに安政の大獄を開始したことを知って、幕府に対して強い憤りを感じ、京都で尊王攘夷派の弾圧の中心にいた老中間部詮勝の暗殺を計画します。

 間部詮勝は、井伊大老の指示のもと、京都へ上り、反幕府の公家や浪士たちの弾圧の先頭にたっていました。
 越前鯖江藩間部家7代藩主で、6代将軍家宣と7代将軍家継の側用人として威勢を発揮した間部詮房の子孫です。
 間部詮勝は、寺社奉行,大坂城代,京都所司代をへて,天保11年老中となり、14年に辞任。その後、 安政5年老中に再任され、9月に京都に入り、通商条約に勅許をえるため朝廷工作を行う一方、尊攘派を弾圧していました。

 松陰は、長州藩政府に、老中間部の暗殺に必要な武器を藩政府で整えてもらいたいという願書を提出します。

  藩政府が、このような願書を受けるはずがなく、驚いた藩重役の周布政之助は、予防的に、松蔭の野山獄への入獄を命じます。
 そして、松陰は、家族や弟子との別れの宴を開き、翌日12月26日に、野山獄に再入獄します。
 そして、年明けには高杉晋作や久坂玄瑞も時期尚早であり自重すべきであるとの手紙が届きました。
 しかし、松陰自身は強気の姿勢を崩しませんでした。
c0187004_1140576.jpg
 やがて、翌安政6年(1859)4月になると、幕府から松蔭の江戸召還が長州藩に命じられました。
 これを受けて、松陰は、間部詮勝襲撃計画が幕府に察知されたためだと考えました。
 しかし、松陰が江戸に召喚さることになったのは、間部襲撃計画が探知されたわけではありません。
 松陰が江戸に送られたのは、井伊大老の懐刀の彦根藩の長野主膳が松陰は重要人物と考えていたことが大きく影響しています。
 長野主膳は、「長州藩吉田寅次郎と申す者、力量もこれあり、悪謀の働き抜群のよし」と考えていました。
 
 江戸に送られる前日、松陰は野山獄から杉家に戻りました。
 野山獄の役人福川犀之助が独断で家族や弟子たちと最後の別れをさせるために特別に配慮したものでした。
 父母や弟子との最後の別れを済ました翌日の5月25日早朝、松陰は野山獄から江戸に向かいました。

 6月25日に江戸に到着し、長州藩邸に入りました。
 この時点では、小伝馬町牢屋敷に入牢していないんです。

 松蔭が幕府評定所に呼び出されたのは7月9日でした。
 この日長州藩は、30人の護衛をつけ、松陰の駕籠を出発させている」(「物語 大江戸牢屋敷」中嶋 繁雄著)そうです。
 大目付久貝因幡守正典、勘定奉行兼町奉行池田播磨守頼方、町奉行石谷因幡守穆清(いしがやあつきよ)等による尋問がおこなわれました。
 江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜との関係と、京都で落文(おとしぶみ)をしたのではないかという2点でしたが、松陰の説明は簡単に済み、疑いも簡単に晴れました。
 そこで、松陰はこの機会を利用し幕府に自分の意見を言おうと考えて、「間部詮勝要撃計画」をも告白してしまいます。
 松蔭は、間部を襲撃する計画を幕府側が事前に探知していると思ったゆえの告白でした。
 松陰自身が、留魂録の中で「幕(幕府)にも已(すで)に諜知すべければ、明白に申し立てたる方却って宜しきなりと。・・・・幕(幕府)にて一円知らざるに似たり」と書いています。
 しかし、これが大失敗でした。
 奉行たちは予想もしなかった老中暗殺計画に非常に驚きました。
 即日、松陰は小伝馬町に入牢を命じられてしまいます。今まで長州藩邸にいたのにかかわらず、罪人の扱いとなりました。
 即日、牢屋敷行きとなったことが幕府側の衝撃の大きさを物語っています。

 その後9月5日、10月5日に3回目の取調べが行われましたが、いずれも取り調べる奉行たちの態度は穏やかであったため、松蔭は、処分は、死罪も遠島もなく、重くても他家お預けと楽観的に考えていたようです。
 しかし、頼三樹三郎、橋本左内さらに飯泉喜内が死罪がなると、最悪の事態を予想するようになります。
 10月16日の取り調べは厳しく行われ、死罪を免れがたいことを感じたようです。
 死罪の免れがたいことを知った松陰は、10月20日に家族宛の別れの手紙を書き、10月25日には、遺書となる 「留魂録」 を書き始め26日に書き終わります。
 そして、安政6年(1859)10月27日に、評定所から「死罪」が言い渡され、即日、小伝馬町牢屋敷にて処刑が行なわれました。吉田松陰30歳という若さでした。

 
 右上段写真は、小伝馬町牢屋敷跡にある十思(じっし)公園です。
 右下段写真は、南千住回向院にある吉田松陰のお墓です。



 松陰の遺書といわれる「留魂録」については明日書きます。
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by wheatbaku | 2013-02-03 11:00 | 大河ドラマ | Trackback
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