井伊大老が暗殺されたのが万延元年(1860)で、松平容保が京都守護職になったのが文久2年(1862)ですので、2年間が経ちます。
そこで、その2年間の動きを簡単に書いておきたいと思います。
井伊大老が、桜田門外の変で暗殺された後、政権の中枢に座ったのは久世広周と安藤信正でした。
この久世広周と安藤信正(特に安藤信正)が進めたのが公武合体です。
その象徴とされたのが、皇女和宮の降嫁です。
さまざまな障害があったものの、 文久元年11月皇女和宮の降嫁が実現します。
しかし、その推進役であった安藤信正が、和宮降嫁に憤激した水戸脱藩浪士を中心とした攘夷派の浪士に坂下門外で襲撃され負傷する、いわゆる「坂下門外の変」が文久2年1月15日に起きます。
右上写真は、坂下門です。
そして、文久2年3月、薩摩藩の島津久光が一千名の藩兵を率いて上京しました。
久光は、朝廷に幕政改革案として
①.将軍が諸大名を率いて上洛する。
②大藩の藩主を国政に参加させる。
③.一橋慶喜を将軍後見職に松平春嶽を政事総裁職に任じ将軍の補佐にあたらせる。
という建言し、勅使大原重徳を奉じて江戸に下り、幕政の改革を要求しました。
幕府は、勅使の要求を飲み、一橋慶喜を将軍後見職とし松平春嶽を政治総裁職に任命しました。
余談ながら島津久光のこの江戸下向から京都に戻る途中で起きたのが「生麦事件」です。
公武合体派の久光が江戸に下っている間、京都では、逆に尊王攘夷運動が高まりました。
まず、攻撃の的となったのが、公武合体を推進した人たちでした。
岩倉具視、千種有文ら和宮降嫁を推進した人たちは四奸二嬪(しかんにひん)と呼ばれ、尊攘志士らに脅迫され、官を辞し、京都郊外に潜まざるを得なくなりました。
次いで「天誅」と称するテロが横行しました。その矛先は、まず安政の大獄の協力者に向けられました。
文久2年7月の九条家の家士島田左近が殺害されたのが最初でした。
島田左近は、関白九条尚忠の側近で、安政の大獄にあたって井伊大老の腹心長野主膳と協力して尊攘派の 浪士,公家侍の捕縛に辣腕をふるいました。
そのため、尊攘志士から標的にされたのでした。
島田左近の首は四条河原にさらされました。
また、8月には、安政の大獄の際に容疑者の逮捕に活躍した目明し文吉が殺され三条川原にさらされました。
11月には、井伊大老の懐刀長野主膳の妾である村山可寿江(かずえ)が、三条大橋の橋柱にしばられ生き晒しの辱めを受けました。
このように、尊攘派のテロが横行している中で、京都所司代は無力化して、京都は無法地帯の様相を呈してきました。
そこで、京都の治安維持のためには、強力な武力が必要だという議論が巻き起こることになり、幕府は京都守護職を設置が話題となってきました。
このあたりについては、今晩の「八重の桜」で触れられると思います。
「八重の桜」が楽しみです。