今日は、この西郷頼母について書いてみます。
「八重の桜」では、西田敏行さん演じる西郷頼母が容保に激しく直言していました。
西郷頼母役の西田敏行さんが熱演していました。西田さんは福島県出身ですからね。
ところで、藩主容保が決意のほどを述べているのにもかかわらず「合点がいきません」と抗弁するなどということは通常の家老ではできません。
実は、藩主松平容保と家老西郷頼母の間には、西郷頼母が、あのように直言できる事情があったようです。
西郷頼母は、代々会津藩の家老を務める家柄の西郷近思(ちかし)の長男として文政13年(1830)に生まれました。
そして、西郷頼母は、万延元年(1860年)、家督と家老職を継いで藩主松平容保に仕えました。
会津藩における西郷家は、初代の西郷近房以来200年余、会津藩松平家の家老を代々務める家柄であり、頼母は9代目でした。
初代の西郷近房は、外祖父である会津保科家の一族で4000石を領する家老の保科正近の養子となりました。
正近には嫡子の正長(1200石)が居ましたが、病弱のため正長の養子なりました。 そして、養父の正長、祖父正近が相次いでなくなり、近房は、養父の1200石を相続し、会津藩家老となりました。
しかし、養父正長の遺児正興が生まれ、近房は正興の元服後には、知行1200石を譲り、西郷姓に戻りました。
その後、正興は罪科を受け越後の国境近くの流刑地で亡くなってしまったため、近房は家老に抜擢され、会津松平家の正之、正経、正容の3代に仕えました。
こうした経緯があるため、西郷家は、保科一族ともみなされていて、現に、西郷頼母は、明治3年、本姓の保科に改姓し、保科頼母と名乗りました。
会津藩との関わりは、美濃高須藩から養子となった容保より強い面があったようです。
ですから、容保は、自分より5歳年上で、保科一族でもあり、ずけずけと直言する頼母を苦手にしていたとも言われているようです。
このため、国許から急ぎ上京し諫言した二人の家老のうち、田中土佐は京都行が命じられますが、西郷頼母は京都行は命じられませんでした。
頼母は、この後も、京都守護を早く辞めるべきたという姿勢を覆さず、禁門の変が起きる直前に上京して、京都守護職辞任を説いています。
そのため、家老を解任され蟄居させられることになります。
その後の会津戦争では、白河口総督として新政府軍を迎撃しましたが敗れ、頼母は、再び恭順を勧めましたが、拒否され城から出た後、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館まで戦っています。
また、西郷頼母の母や妻子など一族21人は、頼母の登城後に屋敷で自刃し、白虎隊に次ぐ、第2の悲劇と言われています。
そうしたことから、これからもしばしば、西郷頼母は「八重の桜」に出てくるものと思います。
これらの事は、堀田節夫氏著の「幕末の会津藩家老 西郷頼母」(右下段写真)に詳しく書かれています。