【高松宮邸】
高松宮邸は都営高輪一丁目アパートの北側にあります。
ここは、明治時代には、高輪御殿と言いました。
その後、大正時代には皇太子であった昭和天皇が一時期東宮御所としていたこともあります。
戦後は、広大な敷地は宣仁親王の意によって縮小され、払い下げられた場所には港区立高松中学校や都営高輪アパートなどが建てられました。
また、残った敷地内にあった本館も、「光輪閣」として改装のうえ一般開放され、結婚式場などとして貸し出されたそうです。
光輪閣を出た宣仁親王夫妻は、敷地内に小さな木造平屋の邸宅を建てて居住していたが、光輪閣が老朽化によって1972年に取り壊されると、翌年、跡地に再び平屋建の宮邸本館を建設し、2004年に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで使用されました。
高松宮は、徳川慶喜の孫娘である徳川喜久子と結婚しましたが、夫妻の間に子はありませんでした。
昭和62年に高松宮、また平成16年に喜久子妃がそれぞれなくなり、断絶となっしましました。
現在、宮邸敷地および邸宅は「高輪皇族邸」として無人のまま宮内庁の管理下におかれています。
当然、邸内には入れません。右上段の写真は、高松宮邸の表門です。
また、かつて払い下げられた土地の一部には高級マンションが建設されています。(左上写真)
バブル期には3億円もした部屋もあったようです。
【細川邸シイの木】
高松宮邸の裏側(西側)に、大きなシイの木があります。
このシイの木は樹高10.8メートル、幹周り8.13メートル枝張りは東に6.7メートル、西に2.7メートル、南に5.6メートル、北に5.8メートルもある大きな木です。
江戸時代からここにあったようです。
幹の下部に大きな空洞があったため、昭和56年には大規模な大手術を実施したそうです。
赤印が高松宮邸です。 青印が「細川邸のシイの木」です。