そこで、忠臣蔵について、これから週1回~2回程度書いていきます。
忠臣蔵は、虚実が入り混じっていて、虚構の「忠臣蔵」と史実の「赤穂事件」がごちゃごちゃになっている嫌いがあります。
とりあえず、まず史実の「赤穂事件」について書いていきたいと思います。
まず最初に、当事者の「浅野家」「吉良家」「大石家」がどういう家柄で、浅野内匠頭長矩、吉良上野介義央、大石内蔵助良雄がどういう人物かについて書いていきたいと思います。
まず、「浅野家」からです。
浅野家の藩祖は浅野長政です。浅野長政は豊臣政権の五奉行筆頭として有名です。
浅野家は、元禄時代には、広島藩浅野家、赤穂藩浅野家、三次藩浅野家の三家がありました。
この浅野家は、五奉行の一人浅野長政から始まります。
浅野長政 ⇒ 浅野長重 ⇒ 浅野長直 ⇒ 浅野長友 ⇒ 浅野長矩(内匠頭) となります。
まず浅野長政から順に説明します。今日は浅野長政です。
浅野長政ははじめ長吉と名乗っていましたが、尾張国春日井郡北野の安井重継の長男として生まれました。
しかし、母の兄に当たる浅野又右衛門長勝に男子がなかったため、浅野長勝の養女だったややと結婚し,浅野家を継ぎました。
長勝のもうひとりの養女が秀吉の妻となったねねで,秀吉と長政は相婿つまり義理の兄弟の間柄となります。
長政は秀吉にもっとも近い姻戚とし秀吉の天下統一を助けることになります、
浅野長政は、はじめ織田信長に仕えましたが,まもなく信長から秀吉の与力として仕えるように命じられ、天正元年(1573)、秀吉が浅井氏滅亡後その遺領を与えられた時は、近江で120石の知行を与えられています。
天正10年に京都奉行を命ぜられ、民政に力を発揮しました。
天正11年の賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げて,近江の甲賀・栗太2郡の内に2万300石を与えられ、翌年には、近江の坂本城と大津城を預けられました。
天正14年、秀吉の妹の朝日が家康の正妻として輿入れする際に、浜松城まで供奉していき、家康と親密になりました。
天正15年には若狭一国8万石を与えられて小浜城主となりました。
天正18年(1590)の小田原征伐では岩槻を攻め、その後の奥州仕置では検地の実行役として中心的役割を担いました。
文禄の役では, 石田三成らと軍監として渡海しました。
文禄2(1593)年,甲斐で22万5000石を与えられ甲府城主となったが,このとき嫡子の幸長に16万石を与えています。
慶長3年(1598),いわゆる五奉行となった
慶長4年、石田三成、増田長盛の讒訴によって武蔵府中で閉居させられました。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは子幸長と共に東軍に属し、秀忠の軍に従軍して中山道を進み、幸長は東軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦でも活躍しました。
戦後、幸長はこの功績により紀伊国和歌山37万石へ加増転封されました。
長政は江戸幕府の成立後は家康に近侍し囲碁の相手を勤めました。 慶長10年(1605)には妻子とともに江戸に移りました。
家康は長政を囲碁の好敵手として重用していたようで、長政の死後、家康は囲碁をやめたという話も伝わっているようです。
慶長11年(1606)、長政は、幸長の所領とは別に常陸国真壁筑波郡内で5万石を隠居料として与えられ、神崎郡の5千石も知行しました。
そして、慶長16年(1611)に死去しました。享年65歳です。
長男の幸長は、和歌山藩の初代藩主となり、慶長18年(1613)、幸長の死後、嗣子が無かったため、次男で備中国足守藩主であった長晟(ながあきら)が家督を相続しました。
元和5年(1619)に、福島正則が改易された安芸国広島藩に 42万6000石で加増転封となり、幕末まで存続しました。これが浅野本家です。
上の写真は、二つとも広島城天守です。
三男の長重は、長政の隠居料を相続して真壁藩を相続し、のちに笠間藩主となり、子の長直の代に播磨国赤穂藩に転封となりました。これが赤穂浅野家です。
2代目の浅野長重について次回説明します。