そこで、国事御用掛について調べました。
江戸時代は、長い間、朝廷で重要な職は、「関白」「武家伝奏」「議奏(ぎそう)」の三職でした。
「武家伝奏」は、朝廷と幕府間の連絡掛として置かれた役職で定員2名でした。
「議奏」は、天皇に近く仕え、天皇の側近として、上奏を取り次ぐ役職で、朝廷の祭礼を取り仕切ったり、公卿の任免などを担当しました。
関白は、朝廷における最高職で、「武家伝奏」や「議奏」を統括していました。
この他、左大臣、右大臣、内大臣などの役職がありましたが、名誉職に近いもので、あまり権限はありませんでした。
関白は、五摂家と呼ばれる近衛、鷹司、一条、二条、九条の五家から任命されることとなっていました。
このように三職に任命される家柄がほぼ決まっていて、有為な人物が意見を奏上することはできませんでした。
しかし、幕末になり、国事多難の時節から広く登用すべきという意見が強まりました。
これは、特に若手の公卿や攘夷を主張する公卿が強く主張しました。
こうした意見に押され、設置されたのが「国事御用掛」です。
文久2年(1862)12月9日に設けられました。会津藩が江戸を出発したのと同じ日です。
この国事御用掛が、朝廷が幕府に攘夷実行を迫るうえで、重要な役割を果たします。
ちなみに、三条実美、三条西季知、東久世通禧は、八月十八日の政変で、京都を追われた公卿いわゆる「七卿落ち」のメンバーです。つまり急進的な尊王攘夷派の公卿ということになります。
「国事掛」となったのは次の29名です。
まず、関白、議奏、武家伝奏が選ばれています。
関白近衛忠煕 、左大臣一条忠香、右大臣二条斉敬、
青蓮院門主尊融入道親王(後の久邇宮朝彦親王)
前右大臣鷹司輔煕、内大臣徳大寺公純(きんいと)
議奏中山忠能(ただやす)、議奏飛鳥井雅典(あすかい まさのり)
議奏正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう さねなる)
議奏三条実美、議奏阿野公誠( きんみ)
議奏加勢長谷信篤 (ながたに のぶあつ)
武家伝奏坊城俊克(ぼうじょう としかつ)
武家伝奏野宮定功(さだいさ)
その他、次の人々です。
近衛忠房、一条実良、広幡忠礼(ただあや)、三条西季知 (すえとも)
庭田重胤(しげたね)、徳大寺実則 さねつね、橋本実麗 (さねあきら)
柳原光愛( みつなる)、大原重徳 (しげとみ)、
河鰭公述(かわばた きんあきら)、東久世通禧 (ひがしくぜ みちとみ)
裏辻公愛 (うらつじ きんよし)、橋本実梁 ( さねやな)
万里小路博房 (までのこうじ ひろふさ)、
勘解由小路資生 (かでのこうじ すけより)
姉小路公知(あねがこうじ きんとも)