この松が「麻布一本松」です。 このあたりになると坂の名前も「一本松坂」になり、このあたり周辺も松にちなんで麻布一本松とも呼ばれていました。
この松についてはいろいろな言い伝えがあるようですが、松のたもとにある石碑に書かれているのは、天慶の乱で平将門を追討した源経基が冠装束をかけたので冠の松という話です。
石碑(左下写真)には、 「江戸砂子によると天慶二年西紀939年ごろ六孫源経基 平将門を征服しての帰途此所に来り民家に宿す 宿の主粟飯を柏の葉に盛りささぐ 翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松とも云い又一本松とも云う」と書かれています。
江戸名所図会には次のように書かれています。
「同所北の裏通り、一本松町道の傍にあり。一株の松に注連(しめ)を懸け、その下に垣を廻らせり。里諺に云く、六孫王経基(源経基)この地を過ぐる頃、この松に衣冠を懸け給ひしとて、冠松(かむりまつ)の名ありとも、その余さまざまの説あれども分明(ふんみょう)ならず。今この辺りを一本松と号して地名となれり。あるいはいふ、小野篁(たかむら)が植ゆる所なりとも。(按ずるに、氷川明神の別当徳乗院より、この松樹の注連(しめ)をかけかゆること怠らず。ある人いふ、この松は氷川の神木なればなりとぞ、この説是なり。されど昔の松は枯れて今若木を植ゑ置けり)」
江戸名所図会には、「一本松」の脇に茶店が描かれています。
この茶店が、池波正太郎が鬼平犯科帳の中で麻布を舞台に書いた「麻布一本松」という短編作品に出てきます。
『鬼平犯科帳(21)』に収録されています。
「麻布一本松」のあらすじは次のようです。
「うさぎ」というあだ名のついている同心木村忠吾は、見廻り区域が麻布に変わり面白くないと腹いせに蹴った石が浪人に当たり、怒った浪人が刀を抜いたため、忠吾は、とっさに浪人の急所を蹴って走り去りました。
数日後、忠吾が塗笠をかぶって見廻り中、一本松の茶店で酒を頼むと、忠吾好みの女がお酌を申し出ます。
女はお弓といい明後日の再開を約束しました。
翌日、忠吾は長谷川平蔵に供を言いつかります。平蔵は麻布方面の見回りを行っている最中、刺客に襲われ平蔵は撃退しますが、忠吾は太ももを斬られて怪我をしてしまいます。
しかし、忠吾は怪我をしているにもかかわらず、麻布へいきたいと思います。
忠吾の浮気ごころのなせる業です。でもとても行ける状態ではありません。
平蔵は、一人で麻布を見廻っている時に予て知っていた剣客市口又十郎に出会います。
市口又十郎が語るには、先日、浪人に急所を蹴られて、今日は、その浪人が現れるのを待っていると事情を説明しました。
市口がいう浪人は忠吾のことだと気が付いた長谷川平蔵が、太ももの傷の治療をしている忠吾のところに、市口を連れて行くと、忠吾が驚きのあまり卒倒するというお話です。
この話の中で、忠吾がお弓と出会い再会を約束したり、平蔵が市口又十郎と会ったのが、「麻布一本松」の脇にあった茶店でした。
赤印が「麻布一本松」です。