この「蛤御門の変」について「京都守護職始末」にどう書かれているのか、今日は書いていきたいと思います。
当時、京都に駐在していた会津藩の軍勢は、二陣すなわち8隊および容保直属の部隊で、総勢1500名程度でした。
第一陣は、家老神保内蔵助が陣将で、第二陣は家老内藤信節(のぶこと)が陣将でした。
第一陣は、新撰組とともに九条河原に陣取り伏見の長州勢に備えました。
伏見の長州勢は福原越後が率いる500名ほどの軍勢でしたが、大垣藩兵と戦い、大敗を喫して敗走しました。
第二陣は、陣将内藤信節は1隊を率いて唐門を守り、2隊が蛤御門を守り、1隊が黒谷の本陣の警備につきました。
なお、陣将内藤信節は、梶原平馬の実兄です。梶原平馬は内藤家に生まれ、梶原家の養子となっていました。
蛤御門の守備隊は、敵は正面からくるものと考え、大砲を門外に出して備えていました。
嵯峨天龍寺に構えていた長州勢は京に攻め入りました。
国司信濃の率いる軍勢は中立売門(蛤御門の北の門)を守っていた筑前兵を破り門内に入り、蛤御門の会津勢に砲撃をくわえまてききました。
一方、下立売門側からは来島又兵衛の隊が攻めてきました。
そこで、会津勢は、大砲を門内に引き入れ、南側から攻めてくる長州勢に砲撃を加えました。
長州も、砲撃してきたため。会津藩側にも多数の死傷者がでました。
しかし、薩摩藩や桑名藩の応援があり、来島又兵衛も倒れたため、ついに長州勢は敗走し始めました。
京都御苑内に「清水谷家の椋」(左上写真)という木が残されていますが、来島又兵衛はこの椋の木の近くで亡くなったといわれています。
この時の戦いは「禁門の変」」とも呼ばれますが、蛤御門での戦いが最も激しかったため、「蛤御門の変」とも呼ばれます。
蛤御門には、当時の銃弾の跡も残っています。(右下写真)
一方、山崎に陣をしいていた益田右衛門介の隊は、鷹司邸に入り、堺町御門を守る越前兵を砲撃しました。越前兵は、敗走し、新手の彦根藩や桑名藩の軍勢が加わり長州勢を攻めましたが、長州側は鷹司邸に立てこもり戦い続けました。
そこで、会津藩の十五ドエム砲により、鷹司邸の塀を砲撃し崩壊させて攻め入りました。
そして、邸内にいた久坂玄瑞や寺島中三郎は自刃し、真木和泉は負傷しながらも鷹司邸を脱出しました。その後、男山八幡で自刃しました。
以上が、「京都守護職始末」に書かれている「蛤御門の変」の情況です。
「京都守護職始末」には、山本覚馬の名前は出てきません。
しかし、この戦いでは大砲・鉄砲が重要な役割を果たしていますので、山本覚馬は大砲隊を指揮して奮戦したものと考えられます。
なお、蛤御門の変での山本覚馬の奮戦ぶりは、「心眼の人」(恒文社刊、吉村康著)によく描かれてます。
昨日の「八重の桜」では、山本覚馬が、蛤御門で大砲隊を指揮して活躍ていしますが、その山本覚馬の姿は、「心眼の人」に描かれている姿そのものです。