吉良上野介義央は、寛永18年(1641)9月2日、高家旗本吉良義冬と酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸で生まれました。
幼名は三郎と言いました。三郎という名は、吉良家の嫡男につけられた名前のようです。
義央の名前の読みは、従来「よしなか」とされていました。
しかし、愛知県西尾市(旧吉良町)の華蔵寺に収められている古文書の花押の中心に「久」が使われていることなどから、現在では「よしひさ」と呼ばれています。
私も「よしなか」と思っていましたが、昨年、吉良に行った際に、皆さんが「よしひさ」と呼んでいて戸惑いました。
右写真は、華蔵寺にある吉良上野介義央の木像です。吉良上野介の50歳の時の像だそうです。
なお、右下写真は、両国の松坂町公園にある吉良上野介の像ですが、これも、華蔵寺の木像をモデルにして制作されたものです。
承応2年(1653)13歳で、将軍徳川家綱に拝謁しました。
明暦3年(1657)、従四位下侍従上野介に叙任されました。
そして翌年の万治元年(1658)18歳で、出羽米沢藩上杉定勝の四女で上杉播綱勝の妹の三姫(後の富子)と結婚しました。
万治2年(1659)19歳から高家見習いとして出仕し、家禄とは別に合力米千俵を支給されるようになりました。
それから2年後の寛文2年(1662)に上野介は初めて上京しました。この時に、重要な使命を持って父義冬とともに上京していました。それは、後西天皇の譲位の内談でした。
そして、見事に使命を果たし後西天皇の攘夷について後水尾上皇の裁許を得ることができました。
そして、翌寛文3年(1663)正月、後西天皇の後を受けた霊元天皇の践祚が決まり、その賀使として2度目の上洛をし、大枚白銀千両と綿百杷を頂戴し、さらに22歳にして従四位上に昇進しています。
寛文4年(1664)閏5月、米沢藩主上杉綱勝が嗣子がないまま急死しました。
そのために上杉家は改易の怖れがありましたが、吉良上野介の長男三之助を上杉家の養子として改易を免れました。この三之助が後の上杉綱憲です。
これには、綱勝の正室の父保科正之の格段の配慮があったと言われています。
寛文8年(1668)、父義冬が京都にて死去したため28歳で家督を相続しました。
その後、高家として、生涯を通じて24回も上洛し朝廷へのお使いをしています。
そのうち、15回が年賀使すなわち年頭のご挨拶で、9回が年賀使以外のお使いです。
その他、伊勢神宮への御使いは3回、日光東照宮へは13回御使いしています。
天和3年(1683)には大沢基恒、畠山義里とともに高家肝煎に就任しました
貞享3年(1686)に領地吉良に黄金堤を築き、洪水を防ぎました。
そして元禄元年(1688)に新田開発を開始しました。
これは、元禄10年に完成し、妻富子の名前をとって「富好(とみよし)新田」と呼ばれるようになりました。
この黄金堤と富好新田については、後日、詳しく書きたいと思います。
元禄2年には、綱憲の子供の春千代を養嗣子としました。
綱憲を上杉家に養子に出した後、次男の三郎を跡継ぎにする予定でしたが、三郎が貞享2年に8歳でなくなってしまい、後継がいなかったためです。
元禄9年には、11歳になった春千代が、将軍綱吉にお目見えし、名を改めて義周(よしちか)と名乗りました。
元禄11年には、数寄屋橋から火事が起こり、鍛冶橋門内にあった吉良邸も焼失し、呉服橋門内に、新たに屋敷地を賜り、新しく屋敷を建て替えました。
そして、元禄14年には、正月に朝廷に年賀使として上洛し、正月11日に京に到着し2月29日に帰京しました。
3月11日に勅使・院使が江戸に到着し、その後の行事も無事終わり、最後の勅答の義が行われる3月14日、松の廊下で浅野内匠頭に斬りつけられ、吉良上野介の一生および吉良家が大きく変わることになりました。
松の廊下刃傷事件の話は、赤穂事件の中心的事柄ですので、後日、また詳しく書きたいと思います。