そこで、昨日に続いて、「鳥羽伏見の戦い」について書きますが、書いていきましたら長くなってしまいましたので、まさに「八重の桜」のタイトルどおり、鳥羽伏見の戦いが始まった正月3日の深夜までの状況を書くことにしました。
12月28日に大坂城に届いた江戸での薩摩藩邸の焼き討ち事件の報により、一気に薩摩討つべしという主戦論に傾いて幕府軍は、正月元旦に薩摩藩の罪状を列挙して、奸臣を引き渡さなければ誅戮を加えるとした「討薩の表」を発しました。
こうして、2日には、老中格・大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とする幕府軍1万5000人が大坂から進発しました。
そして、老中稲葉正邦が城主である淀城に宿泊して京都の情勢を見ました。
翌3日には、幕府軍は、伏見街道をいく本隊と、鳥羽街道を行く別働隊の二手に分かれ京都に向かいました。
本隊は会津藩を先鋒とし、幕府陸軍奉行の竹中重固(たけなかしげかた)を指揮官でした。新選組も会津藩と一緒に進軍しました。
本隊は伏見に到着し伏見奉行所を本営としました。(右上写真は伏見奉行所跡の石碑です。)
別働隊は、指揮官は大目付滝川具挙(ともあき)で、桑名藩を先鋒として、見廻組や大垣藩兵などが続きました。
幕府軍の進発の報を聞いた新政府は、薩長土三藩を中心とした総勢5000の軍勢で向かい打つ体制を整えました。
伏見方面は長州藩兵が主力で御香宮(右下写真)を拠点に布陣し、鳥羽方面は薩摩藩が主力でした。
この時、薩長は、これから始まろうとする戦いが、薩長軍と幕府軍の「私戦」となることを怖れ、3日正午に三職(総裁、議定、参与)以下を集めて緊急会議を開き、幕府軍が撤退しなければ朝敵と見なす決定がされました。
これにより、幕府軍は朝敵とされる可能性が非常に高くなりました。
伏見奉行所を本営とした幕府軍の指揮官・竹中重固は、慶喜が入京するため会津藩・桑名藩が先鋒として通過すると新政府軍に通告したが、新政府軍は朝廷の許可があるまで通せないと要求を拒否しました。こうして、押し問答がしばらく続きました。
一方、鳥羽方面でも、幕府軍は、対峙する薩摩藩に通せと通告したのに対して、薩摩藩は通過させませんでした。
こうして、鳥羽でも通過をめぐって、押し問答が続きました。
この押し問答にしびれを切らした鳥羽の幕府軍は、幕府大目付滝沢具挙(たきざわともあき)が強行突破を決断し、部隊を進軍させました。
幕府軍が強行突破を敢行したことを知った薩摩藩軍は一斉砲撃を開始し、 ついに鳥羽・伏見の戦いの戦端が開かれました。
鳥羽街道を縦列で進軍していた幕府軍は薩摩藩の集中砲火を浴び、幕府軍は被害が大きかったのですが、見廻組などの刀槍部隊が新政府軍に斬り込んで奮闘しました。
しかし、鉄砲の前には歯が立たず、幕府軍はこの戦闘で甚大な被害を受けました。
夜になっても両軍は激しい戦いを繰り返しましたが、勇敢に戦い続けた幕府軍も劣勢は明らかとなりました。
一方、鳥羽街道での砲撃音は伏見にも届き、伏見の地でも戦端が開かれました。
幕府軍は伏見奉行所の正門を開き、新政府軍に攻撃を開始しました。
これに対して、長州藩と薩摩藩は砲撃で応戦し、伏見方面の幕府軍本営が置かれている伏見奉行所を激しく砲撃しました。
伏見での戦闘では、会津藩や新選組は抜刀して勇敢に斬り込んでいきましたが、新政府軍は、激しく砲撃を繰り返し、幕府軍の攻撃は次第に弱まっていきました。
深夜になると砲撃により伏見奉行所が炎上したため、幕府軍は、淀城に向けて撤退を開始しました。
今日は、ここまでとします。「八重の桜」で「鳥羽伏見の戦い」は、どう描かれるのでしょうか今夜の「八重の桜」が楽しみです。
ところで、今日の写真は、昨年秋に伏見を旅行した際に撮ったもので、最上段は伏見奉行所跡の石柱ですが、市営住宅の入り口にひっとりと建てられていました。
右下段写真が御香宮です。境内から「香」の良い水が涌き出たので、清和天皇よりその奇端によって、『御香宮』の名を賜ったのだそうです。
伏見奉行所と御香宮は至近距離にありました。