「八重の桜」の第21回は「敗戦の責任」でしたが、この時の主人公は、会津藩士「神保修理」でした。
その「神保修理」のお墓が、白金の興禅寺にあると知ったので、土曜日に興禅寺に行ってきました。
興禅寺は、東京メトロ「白金台」から約10分のところにあります。
興禅寺は延宝2年(1674)に創建された臨済宗妙心寺派のお寺です。
開基は米沢藩2代藩主上杉定勝の娘長松院です。
その縁で米沢藩上杉家の菩提寺となっています。
神保修理のお墓は、庫裏脇の墓所入り口にあります。
墓碑銘は、神保長輝となっています。隣には萱野権兵衛のお墓もあります。
さて、神保修理の経歴を「会津人物事典(武人編)」に基づいて書きます。
神保修理は、会津藩家老・神保内蔵助利孝の長子として生まれました。
幼い頃より学問に秀で容姿は閑雅であり、藩校日新館では、秀才であったと伝えられています。
慶応2年(1866)、松平容保は、藩政改革を行い、人材登用と軍制改革を行いました。容保は、とくに修理と佐川官兵衛の将来を嘱望していたとされ、藩の重役に登用されました。
そして、容保は修理を長崎に派遣し、内外の大勢を学せました。
修理は、また、広く諸藩の人物とも接触し、伊藤博文、大隈重信などとも交わりました。
慶応3年(1867)、大政奉還そしてその後の王政復古クーデターによって慶喜・容保が大坂に下ると、修理もまた長崎から大坂へ帰還しました。
そして、鳥羽・伏見の戦いが勃発し事態が緊迫してくると、修理は、一旦江戸に帰ることが得策であること、大坂に拠って戦うことの不利を慶喜と容保に進言し、恭順説を唱えました。
そして、慶喜、容保は、大坂城を抜け出して江戸へ脱出してしまいました。
これにより、幕府軍は崩壊し、会津藩兵も大変な苦労して江戸に帰ることにとなりました。
将軍慶喜が敵前逃亡したのは、修理が将軍に恭順を進言したためと会津藩内で怒りの声が上がり、さらには全藩からも鳥羽・伏見の敗戦を招いた張本人と非難されるまでになってしまいました。
容保は、修理が会津に帰れば危害を加えられるとの配慮から和田倉上屋敷に幽閉しました。
修理を救おうと親交のあった勝海舟は、身柄を幕府に引き渡すよう慶喜を通じて画策しまし。しかし、これを聞いた藩士の怒りは益々激しくなり、修理の身柄を幕府に渡すことに反対し修理の処罰を容保に迫りました。
修理はまもなく三田下屋敷に移送されました。
そして、自刃を迫られました修理は、容保に面会させて欲しいと嘆願しましたが、この願いは拒否され、主命といつわった切腹を命じられました。
修理は主命と偽った命であると知りながら、死に臨み「自分はもとより罪はない。しかし君命とあれば、これを守るのが臣としての道である」と言って従容として切腹したと伝えられています。
慶応4年2月22日、神保修理30歳の春でした。
辞世の歌は「帰りこん ときぞ母のまちしころ はかなきたより 聞くへかりけり」です。
なお、神保修理のお墓が興禅寺にある経緯については、興禅寺にお尋ねしましたが、不明とのことでした。
また、お墓通であり会津通のハカマオーにも聞いてみましたが、同様の意見でしたので、やっぱり経緯はわからないのだと思います。