そのタイトルが意図するところの奥羽列藩同盟の結成に至る経緯が描かれていましたが、コンパクトにまとめられてよかったと思います。
そして、奥羽列藩同盟と新政府軍との最初の戦いである「白河口の戦い」が始まりました。
そこで、今日は「白河口の戦い」について書きたいと思います。
白河は奥州街道沿いの要衝であるため、歴代譜代の名門が収めました。
戊辰戦争が始まる直前までの藩主は阿部正静でした。
慶応3年に、それまで実質廃城であった前橋城を再興し、川越藩主であった松平直克が前橋に移り、川越に棚倉藩の松井康直が移り、棚倉藩に白河藩の阿部正静がうつりました。
その結果、白河城は空城となり、二本松藩が管理していました。
こうして城主不在の状態であった白河城へ会津藩が入りこれを確保しました。
会津藩は、家老西郷頼母が総督となり、副総督の若年寄横山主税とともに会津藩兵を率いて白河城に入城しました。一方、仙台藩、棚倉藩、二本松藩などの奥羽越列藩同盟の応援部隊も到着しました。
会津藩側は、約2000~2500名と言われます。
一方、新政府軍は、関東の掃討が完了していないことから、兵力の集中ができず、薩摩・長州・大垣・忍藩兵約700名で攻略しました。
新政府軍は、5月1日に攻撃を仕掛けました。この戦いで、同盟軍は横山主税をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出し、新政府軍の圧勝に終わり、白河城も陥落しました。
その後、会津藩側は、戦力を増強し、数度にわたり、白河城奪還を図りますが、ついに奪還はできませんでした。
白河口の戦いは、会津藩にとって、奥羽列藩同盟の諸藩と連合した初戦で、ここで勝つことにより、同盟がより強固は攻守同盟に発展するという重要な戦いでした。
しかし、優勢な兵力を生かしきれず、副総督の横山主税はじめ、歴戦の兵士を失い、大きな損害をだすとともに、政治的にも大きな損失を蒙りました。
こうした敗戦の原因はどこにあるか
これについて、星亮一氏は、会津藩と新政府軍が使用している武器の優劣も原因の一つであるが、それ以上に指揮官の人選に問題があると言います。
西郷頼母は、会津藩が京都守護職で京都に駐在している期間、ずっーと会津に謹慎していて、薩長との交渉の経験もありませんし、まして実戦の経験もありません。
そして、副総督の横山主税もフランス留学から帰国したばかりで、これまた実戦経験がありません。
こうした経験のない人たちが指揮をしたことが最大の原因であると星氏は考えているようです。