白虎隊については、後日書きますが、今日は、最初の会津藩領への侵入戦である「母成峠の戦い」について書いていきます。
新政府軍では、二本松城が陥落した後、次の段階として、会津を攻めるかどうするか議論がありました。
大総督府の参謀大村益次郎は、「枝葉を刈って、根元を枯らす」と仙台・米沢など会津周辺の諸藩への進攻を考えていました。
一方、二本松の参謀板垣退助と伊地知正治は、逆に、「根元」の会津を直接攻めるよう主張しました。
会津藩が国境へ兵を出して藩内を手薄になっていること、それに雪の降る時期になると新政府軍が不利になるというのが、その根拠でした。
慶応4年は、閏月があったため、8月といっても、今でいえば10月にあたるため、会津藩領への侵攻が検討されている時期は、もうじき冬がくるという時期でした。
議論の結果、新政府軍は、二本松から直接会津を攻めることになりました。
会津へ入るにはいくつかの街道があります。
越後からくる越後街道、米沢からくる米沢街道、日光と通じた会津西街道、白河から入る白河街道、そして、二本松から入る二本松街道です。
さらに、二本松から入るには中山峠と母成峠から入る道などいくつかの道がありました。
諸街道の中で、会津藩が特に守りを固めていたのは、越後口、日光口、白河口でした。
これらの街道の中で、新政府軍が進攻口としたのは、二本松街道母成峠(石筵口)でした。
会津藩は、白河口には主力軍で備えていましたが、二本松街道は、それほど防御を固めていたわけではありませんでした。
まして、母成峠は峻嶮な峠であったため、多くの兵力を配置していませんでした。
慶応4年8月21日、 新政府軍約2千の軍勢が、母成峠の会津藩約800を攻めました。
会津藩側には、元幕府陸軍奉行の大鳥圭介がいて、その配下の伝習隊は善戦しましたが、火器の違いと軍勢の違いにより、次第に会津藩は敗色が濃くなりました。
そこに、間道を抜けた新政府軍が現れ、会津藩側は大混乱に陥ちいり、夕刻までに、母成峠は、新政府軍に制圧されてしまいました。
会津藩では、藩境がわずか1日で突破されるとは思ってもいなかったことです。
これにより、一気に若松城下に、新政府軍が侵攻する要因となり、白虎隊の悲劇や西郷頼母邸の悲劇を引き起こすことになります。