慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩では、敗戦の教訓から、3月10日軍制改革を行いました。
そのポイントは、軍制の洋式化と年齢別部隊編成です。
従来の長沼流軍制では、様々な年齢の人々が一軍団を構成していましたが、新しい軍制では、年齢別に部隊を編成しました。
そして、部隊名には、「四神思想」で「方角の守護神」とされている空想上の動物、青龍(せいりゅう)、朱雀(すじゃく、しゅじゃく。すざく)、白虎(びゃっこ)、玄武(げんぶ)、を部隊名としました。
朱雀隊は 18~35歳
青龍隊は、36~49歳
玄武隊は、50歳以上、
白虎隊は、16~17歳 としました・
白虎隊は、当初は15歳からとしましたが、あまりにも幼いので16歳からに修正したそうです。
それぞれの人数は、
朱雀隊は、約1200名、
青龍隊は、約1100名
玄武隊は、約400名でした。
白虎隊は、約300名 総数で約2800名が戦闘要員となりました。
この中で、戦闘の主力は朱雀隊で、準主力が青龍隊で、玄武隊、白虎隊はいわば予備軍でした。
各部隊は、身分により、士中隊、寄合隊、足軽隊に分かれました。
白虎隊の部隊構成をみると次の通りだったようです。
白虎士中一番隊 37名
白虎士中二番隊 37名
白虎寄合一番隊 98名
白虎寄合二番隊 62名
白虎足軽隊 71名
総数 305名
飯盛山で自刃して果てたのは、この中の士中二番隊の19名です。
この士中、寄合の区別について書いた物が、なかなか見つからなかったので、会津若松の白虎隊記念館(右下写真)に問い合わせると丁寧に教えていただきました。
会津藩には、「班席」という11階級からなる身分制度がありました。
その「班席」の上位5番目までの身分の人いわば「上士」により「士中隊」が構成され、
その下の中位3階級の人たちいわば「中士」により「寄合隊」が構成され、
下位3階級のひとたちにより「足軽隊」が構成されている とのことでした。
そこで「班席」について、教えていただいた「会津藩教育考」で調べました。
それによると次の11階級でした。
上位5階級 「敷居内御目見納戸紐」「格役黒紐」「黒紐」「紺紐」「花色紐」
中位3階級 「独礼御目見茶紐」「御通御目見(年割)萌黄紐」「月割浅黄紐」
下位3階級 「黒半襟」「免許大和柿白鼠半襟」「高掛浅黄半襟」
右上写真は、会津若松駅前の白虎隊士像です。