萱野三平は、「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平のモデルであることは有名な話です。
萱野三平重実(かやの しげざね)は、延宝3年(1675)に、旗本大島家の家老格萱野七郎左衛門重利の三男として生まれました。
萱野家は、代々摂津国萱野村(今の箕面市萱野)を領した郷士の家柄でした。
戦国時代、萱野家は、荒木村重に仕えました。しかし、荒木村重が織田信長と戦って敗れたため、衰退しました。
江戸時代になり、萱野郷の領主5千石の旗本の大島氏に仕えることになり、三平の父七郎左衛門重利は、大島家の家老格でした。
萱野三平が13歳の時、父の主人大島出羽守の推挙を受けて播磨国赤穂藩主浅野長矩に仕えました。
萱野三平は、中小姓(12両2分3人扶持)として江戸屋敷で仕えていました。
浅野内匠頭が松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ際には、萱野三平は、早水藤左衛門とともに早駕籠で事件の第一報を赤穂へもたらしました。
江戸から赤穂まで155里(約620キロ)、普通の旅人なら17日かかるところを僅か4日半で走破しました。
この道中、自分の故郷である萱野郷を通過するとき、たまたま、母親の葬列に出くわしました。
早水藤左衛門からは「一目なり母に会っていけ」と勧められましたが、「母親の死は一家の大事、主家の変事は御家の大事、御家の大事はないがしろにできない」と、棺に目礼をしただけで、すぐに、赤穂に向け、駕籠を走らせたと言われています。
萱野三平は、赤穂城開城後、郷里の摂津国萱野村へ戻りました。
萱野三平は、亡君の意思を継いで吉良上野介を討とうという堀部安兵衛たちの意見に賛同していました。
そのため、父七郎左衛門からは大島家へ仕官するよう勧められましたが、萱野三平は、仕官を断っていました。
元禄15年正月に、萱野三平が江戸へ下ろうとした際に、父七郎左衛門は、江戸下向を許しませんでした。
七郎左衛門は、三平が討ち入りを考えていることは知っていたようです。
「もし討ち入りが決行されれば、親戚縁者に罪が及ぶかもしれない、それは耐えられる。しかし、場合によっては恩ある主家・大島家にも累が及ぶかもしれない。これは、見過ごすことができない」と七郎左衛門が考えたため、江戸下向を許さなかったようです。
このため、萱野三平は、板挟みになり、「忠ならんと欲すれば考ならず、考ならんと欲すれば忠ならず」と思い悩んだ末、父と大石内蔵助宛ての遺書2通残して、正月14日、浅野内匠頭の命日に切腹して果てました。
大石宛てのものには、
「御手前様へ差し上げ置き候神文の手前、口外仕り難く忠孝の間において聊か当惑仕り候これにうより自殺仕り候」 と書いてありました。
辞世の句は
晴れゆくや 日ころこころの 花くもり (涓泉) でした。
萱野三平は、涓泉(けんせん)という俳号を持ち、俳句の達人としても知られていました。
萱野三平は、生きていれば、必ず討ち入りに参加したと考えられていたようです。
まさに48人目の赤穂浪士であったわけです。
そのため、泉岳寺にも、他の赤穂浪士のお墓とともに萱野三平のお墓(右上写真)があります。
また、大阪府箕面市には、萱野三平の屋敷跡及び長屋門が、萱野三平記念館「涓泉亭」として保存されているそうです。
長屋門で萱野三平が切腹したとされています。 詳しくはこちら