降伏式は大手門前、西郷頼母の屋敷と内藤助右衛門の間の甲賀町通り路上で行われました。
式場には15尺(約4.5メートル)四方の緋毛氈(ひもうせん)が敷かれ、降伏式が行われました。
会津藩側からは松平容保・喜徳父子他、新政府軍からは軍監の薩摩藩士中村半次郎らが式に臨みました。
中村半次郎は、「人斬り半次郎」と呼ばれた人物で、明治になってからは、「桐野利秋」と名前をかえ、征韓論層で西郷隆盛とともに下野し西南戦争でなくなります。
会津若松城攻めの中心は、伊地知正治と板垣退助でしたが、降伏式の大役は、中村半次郎が勤めました。
これには、西郷隆盛の強い意向が反映されていると言われています。
新政府軍側は、中村半次郎のほか、軍曹山県小太郎、使番唯九十九が出席しました。
松平容保と喜徳は麻の上下を着て、小刀を帯び、大刀は袋に入れて侍臣に持たせ現れました。
そこで容保は「謝罪書」を中村半次郎に提出します。
続いて容保父子と共に式に臨んだ家老萱野権兵衛は、萱野権兵衛・梶原平馬・内藤助右衛門・山川大蔵らが署名した「戦争責任は家臣にあるので、容保父子には寛大な処置を」という内容の嘆願書を提出して降伏式は終了しました。
その後、容保父子は、一旦城に戻りって家臣に別れを告げました。
そして、戦死者が眠る城内の空井戸と二ノ丸の墓地に花束を捧げ頭を垂れました。
空井戸には戦死者がいるたびに絹の衣服に包んで投げ込んで埋葬し、空井戸が満ちると二の丸の空き地に埋葬しました。
容保父子は戦死者にも頭を垂れたのでした。
その後、二人は本丸を出て、太鼓門から駕籠に乗り、北大手門から城を出て、新政府軍の兵士に警護誘導され、滝沢村の妙国寺に入り謹慎となりました。
降伏式の場には緋毛氈が敷かれていました。これは、長崎の商人、安達仁十郎が献じたもので、15尺四方のものでした。
降伏式終了後、会津藩士たちは降伏式で使われた緋毛氈を持ち帰ります。
それは後に秋月悌次郎により「泣血氈(きゅうけつせん)」と名付けられ、会津藩士の心に深く刻まれることとなりました。
一方、新政府軍を代表して、会津若松城受け取った中村半次郎の所作は作法通りで、かつ温情にあふれていたため、人々は皆感心したそうです。
後に「あのような作法をどこで学んだのか」と尋ねられ、「なぁに 愛宕下の小屋で忠臣蔵の芝居を見て、赤穂城明け渡しの部分をそっくり真似ただけだ」と答えたといいます。
実は、中村半次郎は、「おいも、涙を止めることができんかった」と回想しています。
そうした中村半次郎は、寛大の心で、容保父子の処遇にも気をくばりました。
そうした中村半次郎の温情に対して、後に松平容保は人を介して名刀を贈り、これに報いたといいます。
右上段写真は、甲賀町通り東にあった西郷頼母邸跡に立つ「西郷頼母邸址」の石碑です。
右中段写真は、その向かい側にあった内藤介右衛門邸跡にある「内藤邸跡」の石碑です。
右下段写真は、降伏式が行われたと言われる場所辺りからみた鶴ヶ城天守閣です。