大石内蔵助は、上杉家からの討手は必ず来ると考えて十分に警戒していました。
そしてし、多くの江戸っ子も、もし討入りがあった場合には、赤穂浪士と上杉家の戦いにもなると予想していまいしたが、上杉家の討手はかかりませんでした。
上杉家では、何が起きていたのでしょうか。
上杉家に、吉良邸への討入りの報が届けられたのは、吉良邸近くの豆腐屋からでした。
その後、吉良家の足軽丸山清右衛門からも討入りの情報が上杉家に届けられました。
上杉家の家臣野本忠左衛門が記録した「野本忠左衛門見聞記」には次のように書かれています。
15日朝明六時前上屋舗御門迄、本所ニ罷在候とうふ屋兼而被懸御目候者之由にて走参本所之御屋舗江夜討乱入埒もなき様子に御座候、しかと仕たる事ハ不見届候得共早々為御知参上之由御門外より申捨帰候
夫ニ打続跡より左兵衛様家来之内壱人漸遁れ出参候由にて右之趣申捨帰候事
これによると、吉良邸の近くの豆腐屋が明け六つころに、赤穂浪士の討入りを上杉家に伝えたこととなっています。
しかし、同じ上杉家の「大熊弥一右衛門見聞記」には「七つ半時」つまり午前5時ごろとあります。
原文は次の通りです。
14日夜中七半時本所左兵衛様御屋敷近所罷在候たうふ屋(豆腐屋)東御門へ参り今夕八半時左兵衛様御屋敷へ浅野内匠家来150人程夜討ニ押込候段注進仕候、同時ニ左兵衛様御足軽丸山清右衛門大御門へ参り右之段注進仕候
その後の対応を赤穂市発行「忠臣蔵第3巻」に載っている 米沢図書館所蔵「編年文書」によれば、
上杉家の上屋敷から二組ほど出陣させ、麻布の中屋敷からも人数を出して、途中で落ち合って吉良邸に向かおうと言っている間に、本所からは、赤穂浪士はもう引き揚げましたと連絡があったので、人を各方面に派遣して行き先を探させ、対応策を協議していると、高家の畠山下総守義寧と若年寄本多伯耆守正永がやってきて、上杉家の出撃を止めた。
となっています。
また、「上杉綱憲年賦」によると、綱憲は、討入りの報告を受けると、すぐに家臣を出動させ赤穂浪士を一人残らず討ち取るよう命じました。
そこで、家臣大勢で出動しようとしているところに、畠山下総守義寧がやってきて
「今暁ノ変ニ依テ定テ討手ヲ差向ラル儀モ此有シカ今此静謐之御代ニ於テ江府之騒動ニ及シ事勿体ナシ兇徒ノ奴原 公議ヨリ不日御成敗アルヘキ儀ナレハ討手ヲ差向ラル儀堅ク抑留ラルベキ旨老中下知ノ趣巨細ニ演達」 したため、上杉綱憲はやむえず出動を取りやめました。
宮澤誠一先生は「赤穂浪士」の中で、
藩主綱憲は出兵の意思をもちつつも、幕府を恐れ御家の安泰をはかる上杉家の重臣が過度に慎重に事を運んだため、切迫した状況の中では何ひとつ有効な手段がとれず、ついに機会を失してしまったのである。
と書いています。
ところで、映画やテレビの「忠臣蔵」では、吉良邸への討入りがあったことを知らされた綱憲がすぐに飛び起き「馬を引け」と言って、すぐに吉良邸に向かおうとするところを、家老の千坂兵部が必死に諌めるという有名な場面があります。
これも創作です。
上杉家江戸家老の千坂兵部は、討入りのあった元禄15年の2年前の元禄13年になくなっており、赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったときすでにこの世の人ではありませんでした。
また、当時の江戸家老色部又四郎は実父景光の忌服中で、屋敷に出仕しておらず、色部又四郎が藩主綱憲を止めるということもできませんので、色部又四郎が止めたというのも史実ではありません。
こうした話が創作されたことについても宮澤先生は「赤穂浪士」の中で
信憑性の乏しい家老の諌止の話が、近代になっても史実として語り伝えられてきたのは、幕府に制止される前に、なぜ上杉家は討手を差向けなかったのかという疑問に答える必要があったからであろう。
と書いています。
右上の写真は、霞ヶ関の法務省旧本館です。ここに上杉家上屋敷がありました。
右中写真は、上杉家上屋敷であったことを示す説明板です。
右下写真は、麻布郵便局です。ここに上杉家中屋敷がありました。