北隣りの土屋主税、本多孫太郎、東向かいの牧野一学から幕府に報告書が出されています。
それによると、
土屋主税からは
火事かと思い出てみたところ、喧嘩の体なので、家来を召し連れ屋敷を固めていた。すると吉良邸の中から、片岡、小野寺、原なる者が名を名のって塀越しに声をかけ、吉良を討ち取り本望を達した旨申したので仇討が行われたことを承知した
と書いてあり、事前に挨拶があったとは書いてありません。
またもう一方の北隣である本多孫太郎の屋敷では、当夜、騒がしいので外へ出てみると、吉良家の屋敷で火が出たようだったが、中の様子はまったくわからず、そのうちに静かになってしまったので、討ち入りのあったのを知らなかったといいます。
東の表門向かいの旗本・牧野一学成純の屋敷でも、吉良邸の物音には気づいていたようです。火事のように方々で声がしたので出て見たが、大きな声が聞こえたものの、中の様子はわからず、門番をつけておいたが、その後何もなかったので、そのままにしておいたといいます。
これが公式的な報告です。
しかし、忠臣蔵では、吉良邸に赤穂浪士が討ち入りした時に、赤穂浪士が、隣家の土屋主税邸に塀越しに挨拶をする場面があります。
この場面では、多くの人の感動を呼ぶ場面です。
これはいかにも創作らしい場面です。
しかし、この場面をそっくり描いた史料があります。
元禄から享保にかけて活躍した儒学者室鳩巣(むろのきゅうそう)が書いた「鳩巣小説」という書物の中に、赤穂浪士が討ち入りした際の様子が書かれています。
これは、赤穂浪士が討ち入りした日の翌日、新井白石が、土屋主税を訪ねて聞いた話を、新井白石から聞いた室鳩巣が書き留めたものです。
それによると次のように話したそうです。
「赤穂義士仇討の時吉良上野介宅へ押よせてきた時 まず、 隣屋敷の土屋主税邸へ吉田忠左衛門方より従者を差越させて、『浅野内匠頭家来が、 主人の敵である吉良上野介殿御宅へ 只今押し込みました。騒動が及びかもしれません。武士は相い互の義ですので、お構いしませんように』と申し入れました。
土屋主税は、それを聞いて、心得た旨の返答をし、家来を透かし塀際へ出し、提灯をひしと差し上せ、その下に射手を揃え、もし塀などのり越えてくる者がいれば、射る落とすように申しつけ、自身は床机に腰をかけ、事が済むまで座っていました。」
これは、まさに忠臣蔵でよくでてくる場面どおりではありませんか。
「続史籍集覧第6冊」(臨川書店発行)に収録された「鳩巣小説」の原文は次のとおりです。
赤穂義士仇討ノ時吉良上野介宅ヘ押ヨセ候時先隣ヤシキ土屋主税方ヘ吉田忠左衛門方ヨリ使者ヲ差越候テ申候ハ浅野内匠頭家来主人ノ敵ニテ候故只今吉良上野介トノ御宅ヘ押込申候可騒動及候間先廣ニ御案内申上候士ハ相互ノ義ニ候間無御構為御討可被下ヨシ申入候主税聞申サレ心得申旨返答有之サテ家来ト塀際ヘ出提燈ヒシト差上セ其下ニ射手ヲ揃ヘモシ塀ナトノリ越申者候ハゝ射落シ候ヤウニ申付其身ハ床几ニ腰ヲカケ事済マテ居被申候由ニ候 (中略)
其後又忠左衛門方ヨリ土屋主税ヘ使者ヲ差越只今上野介殿手ニ入候ニ付目アカシノモノニ見セ候ヘハマカヒモナク上野介殿ニテ候ヨシ申ニ付御首ヲアケ申候狼藉ノ不及是非義ナカラ仕リ候コト迷惑ニ奉存候右為御案内又申進候由申越其儘引申候最前押込申時分障子戸ナトカケヤニテ打破リ申音竹ナトヒシキ申ヤウニ聞ヘ申候由其翌日新井氏主税方ヘ参ラレ直ニ主税咄シ聞申サレ候
ところで、この話は新井白石が、討入り翌日、土屋主税邸に参上して土屋主税から直接聞いてきたと室鳩巣が書いている点(赤字部分)に注目してください。
土屋主税逵直は、上総久留里藩主土屋直樹の嫡男として生まれました。
藩主直樹の奇行や不行跡が重なったため、久留里藩は 藩主狂気を理由に改易されてしまいます。
それでも嫡男の逵直には父祖の功績により3千石が与えられ、屋敷が本所にあったのでした。
新井白石は、久留里藩が改易されるまで、藩儒として仕えていましたので、土屋主税は主人筋になります。
また、新井白石と室鳩巣は、木下順庵のもとで一緒に学んだ間柄でした。
そのため、室鳩巣も新井白石から、このことを聞いたんだと思います。
これと同じように赤穂浪士の堀部弥兵衛と大高源五が討入り前に挨拶に回り、討入り後後には大石主税と大高源五が再び挨拶に来たという話が、宝井其角の手紙にも書かれています。
また、
従って、これらは事実と考えました。
しかし、これについて、赤穂市発行の「忠臣蔵第1巻」にはと書いてあり、疑問が呈されていることを付記しておきます。
四十六士が仇討ちに入ることを事前に伝えてまわったとはみえないし、またそのような暇もなかったというべきである。
それでも、さらに調べると、2月3日付けの小野寺十内が、妻丹への手紙で
我らは北の方、裏口へ回り、隣の土屋主税殿は裏垣越に、屋敷の内を守りて居申され候、此方より言葉を交ひ、その方を守り (後略)
と書いてあるのを見つけました。
やはり、土屋主税が、塀越しに赤穂浪士の討入りの様子をみていたことは事実のように思われます。