泉岳寺で、点呼をとったところ、寺坂吉右衛門がいないということがわかりました。
寺坂吉右衛門がいなくなったのは「逃亡か」「密使か」については様々な意見があり、昔から諸説が発表されています。
この寺坂吉右衛門の扱いにより、赤穂浪士を「四十七士」とするか「四十六士」とするかの分かれ目となります。
そのため、「寺坂吉右衛門問題」に触れないわけにはいきませんので、今日はこの「寺坂吉右衛門問題」について書いてみたいと思います。
寺坂吉右衛門が「逃亡したのか」「密使だったのか」については、 「忠臣蔵」について書かれている先生方の意見も、それぞれ異なっています。
まず、宮澤誠一氏の「赤穂浪士」でどう書かれているか書いてみたいと思います。
宮澤氏は、寺坂吉右衛門は逃亡したと考えているようですが、次のように書いています。
寺坂吉右衛門の逃亡説の論拠となる主な史料は二つある。
一つは「堀内伝右衛門筆記」の中に書かれている内容で、吉田忠左衛門が「此ものハ不届者にて候、重て名ヲ仰せ下され間敷と申され候」と言っていることである。
二つ目は、大石内蔵助が、原惣右衛門、小野寺十内と連名で京都の寺井玄渓にあてた手紙の中で、「寺坂吉右衛門儀、十四日暁迄これある処、彼屋敷へハ相来たらず候、かろきものゝ儀是非に及ばず候」と書いていることである。
密使説についての問題点を挙げると次のようだと言います。
密使説を唱える人たちは、大石内蔵助や吉田の発言は寺坂を討入りの罪から救うためのものであり、彼らの言葉を字義とおり解釈すべきではないというが、寺坂を庇うのであれば大目付仙石伯耆守に陳述すればよいので、私信まで書く必要はないであろう。
また、寺坂に特別の配慮をする必要のない三村次郎左衛門までが、「たちのき申候由に御座候」と書いている。
一方、寺坂吉右衛門自身は「引払の節子細候て引別申候」というだけで離脱した子細には触れていない。
寺坂吉右衛門が広島の浅野大学の所にいったというは風評で、史料的に確かなことは、播磨国亀山に行き、それからも吉田家に仕えたというだけである。
また、そもそも討入りが終わった時点で浅野大学などに密かに伝えるべき事柄あるか疑問である。
また、そうしたことがあったとしても寺坂以外にもっとふさわしい人物がいる。
これらを読むと、宮沢先生は、逃亡説を支持しているように思われます。
山本博文先生は、寺坂吉右衛門について明確に自分の意見は述べていません。
「本当の忠臣蔵」では「寺坂にしてみれば、(中略)もう役目は終わったと考えたのではなかろうか」と書いていますし、「敗者の日本史」では、「足軽という身分だから一緒に死なせるのはしのびないとされ、逃げるように指示されたというのが真実に近いような気がする」とも書いています。
逃亡説をとっているようにも読めますし、密使説をとっているようにも思えます。
野口武彦氏は「忠臣蔵」で、
「明らかに幹部の密命を受けて姿を消したのである」
と書いていて密命説をとっています。
寺坂吉右衛門について、非常に詳しく書いてあるのが、赤穂市発行の「忠臣蔵第一巻」です。
18ページにわたる長文ですので、コンパクトに結論だけ抜書き的に書いておきます。
一部を抜書きしますので、全体のトーンが著者の意向と違った場合にはご容赦いただきたいと思います。
赤穂市発行「忠臣蔵」は、寺坂吉右衛門は討入りに参加したが、自分の意志で姿を消したのだろうと結論づけているようです。
まず「寺坂吉右衛門は、吉良邸にうちいったか」について、
寺坂吉右衛門は、吉良邸に討ち入る吉良上野介を討ち取るまでは吉田忠左衛門の従者として吉田のそばにいたと考えられる。
「それでは、いつ離脱したか」について、
「寺坂信行筆記」を読むと、引揚げの叙述がきわめて短文であること、さらに途中、主人吉田忠左衛門と富森助右衛門が一行から別れて仙石伯耆守の屋敷へ行ったことが記述されていないのも離脱が早期であったことを推察させる。
「寺坂吉右衛門が広島の浅野大学のところに行ったか」について
これを確認する証拠はえられない。ただわかることは寺坂が討入り後まもなく播磨国亀山に来たことだけである。
その他の史料を分析した結果、寺坂が広島に行ったとの説はすでに消えた。
「 しかし、播州に帰るように説得をうけたかどうか」について
寺坂が吉良上野介討ち取り後、早い時期に姿を消したと推定される以上、その段になって、説得する暇があったかどうか考えると、やはり、討入り成功後、寺坂が自らの考えで姿を消したと考えるのが事実に近いと言えるのではないか。
こうして寺坂は、四十七の一人として討入りには加わったが、その後姿を消し播州に下ったという結論になる。
と書いています。
右の二つの写真は、泉岳寺にある寺坂吉右衛門のお墓です。
下の写真をご覧ください。
ほかの赤穂浪士は「刃」「釼」のついた戒名ですが、寺坂吉右衛門の戒名は、「逐道退身信士」となっていて、いかにも逃亡した人物というような戒名となっています。