細川家御預け 17人
大石内蔵助良雄、吉田忠左衛門兼亮、原惣右衛門元辰、片岡源五右衛門高房
間瀬久太夫 正明、小野寺十内秀和、間喜兵衛光延、磯貝十郎左衛門正久、
堀部弥兵衛金丸、 近松勘六行重、冨森助右衛門正因、潮田又之丞 高教 、
早水藤左衛門 満堯、赤埴源蔵 重賢、奥田孫太夫 重盛、矢田五郎右衛門助武
大石瀬左衛門信清、
松平家御預け 10人
大石主税良金 堀部安兵衛武傭、中村勘助正辰、菅谷半之丞 政利、
不破数右衛門正種、木村岡右衛門貞行、千馬三郎兵衛光忠、
岡野金右衛門包秀 、貝賀弥左衛門友信、大高源五忠雄
毛利家御預け 10人
岡島八十右衛門常樹、吉田沢右衛門兼貞、武林唯七隆重、
倉橋伝助武幸、 間新六光風 、村松喜兵衛 秀直
杉野十平次次房、勝田新左衛門武堯、前原伊助宗房 、小野寺幸右衛門秀富
水野家御預け 9人
神崎与五郎 則休 三村次郎左衛門包常 、横川勘平宗利
茅野和助 常成 間瀬孫九郎正辰 、村松三太夫高直
矢頭右衛門七教兼、 奥田貞右衛門行高、 間十次郎光興
これらを受取るために動員された人数は、赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」によれば
細川家 875人
松平家 286人
毛利家 229人
水野家 120人余り 総勢1500余人にもなりました。
細川家では、江戸家老三宅藤兵衛以下4人が請取支配人に指名され、4人にはそれぞれ35人、21人、20人、20人の藩士が付きました。
そしてさらに2人の請取人が指名され、この2人にはそれぞれ16人が付きました。
さらに17人護送する警固人が31人、その一人一人に9人ないし8人が付くという体制でした。
本道の医師、外科の医師がそれぞれ1人、この2人にそれぞれ5人がつき、物書、徒士御使番、徒士小姓計25人には各2人がつきました。
足軽50人、中間・小人は218人、別に股引羽織の家中が61人、駕籠かき、長持ちかき等がいて
総勢875人という大部隊になりました。
松山藩は、番頭奥平平次郎太夫以下騎馬19人、徒士15人、持筒・先筒150人、下目付2人、中間100人、合計286人
長府藩は、家老田代要人以下騎馬6人、徒士侍25人、足軽60人、中間96人、合わせて189人 駕籠10挺、一挺に4人ずつの駕籠かきがいて、これらを合わせて総計229人
「忠臣蔵第1巻」には、水野家の人数は不明と書いてありますが、「忠臣蔵第3巻」に収録されている「水野氏丕揚録(岡崎藩水野氏記録)」によると
留守居・物頭・目付・馬廻・騎馬ノ者13騎、中小姓27人、徒士18人、足軽82人、長柄ノ者40人で送迎したと記録されているので総計180人となります。
いずれにしても、各藩では、大勢の人数を繰り出しています。
たかだか46人の引取に、総勢1500人もの軍勢が動員されていて、不思議な気がしませんでしょうか?
こんなに大勢の人数が繰り出されたことについて、野口武彦氏は、「忠臣蔵」のなかで
徒士目付のひとりがぽつんと漏らしたとされる「公儀にも上杉をお心もとなしとの儀に候条、その覚悟にて途中念入りに引取候様に」(毛利家赤穂浪人御預之記)という暗示がすべてを物語っている。
と書いています。
つまり、上杉家の襲撃を各藩がおそれていたので、このような大人数を動員したということのようです。
右上写真は、イタリア大使館ですが、松山藩松平家屋敷の跡です。
右下段写真は、岡崎藩水野家の屋敷跡に建つ説明板です。