しかし、最終的に赤穂浪士は切腹となったわけです。
それでは、赤穂浪士の処分がどう決定されたかは重要なことですが、このブログを書くために参考にしている本には赤穂浪士の処分のプロセスを明快に書いた本はありませんでした。
そこで、研究者がどう書いているかについて概略を書いていきたいと思います。
山本博文氏は「本当の忠臣蔵」で次のように書いています。
綱吉は、林大学頭信篤に「赤穂浪士を誅するのは法として適切か」と聞くと、林の答えは、法に背いて以上は誅されるべきである。ただ武士の礼として切腹を命じるのがよいと答えたのである。
荻生徂徠は、赤穂城浪人の行動は、「浅野が切腹を命じられたことを逆恨みしたものだ」というユニークな議論を展開している。
「徂徠赤穂浪士四十六士論」は事件直後に書かれたものではないが、柳沢吉保の諮問にこたえ同様な意見を述べた可能性はある。
また徂徠の議論として有名な「徂徠擬律書」は、偽書であると思われる。
綱吉はなんとか46人を殺さずにすむようにしたいと思っていた。
そこで、年賀にきた公弁法親王に助命を嘆願してほしいと考えたらしい。
しかし、法親王は、「46人を助けたいのは山々だが、若い者が多いので、命を助けて、若い者たちが将来を誤ることがあってはよくない」と思い、助命しなかったという。
これは徳川実紀に書いてある話だが、真実かどうか不明である。
宮澤誠一氏は「赤穂浪士」に次のように書いています。
幕府が赤穂浪士の切腹を決定した経緯については二つの話が伝えられている。
一つは、荻生徂徠の建言によるという話である。
「柳沢家秘蔵実記」によると柳沢吉保が荻生徂徠に相談すると、荻生徂徠がいうには「忠孝の道」は綱吉が政務の第一に掲げているのに、その「趣意」によって事を起こした者を盗賊同様に処分するのは情けない。我が国現在の判例として取り捌き、「切腹」を仰せつければ、浪士の「宿意」も立つし、「世上の示」にもなるはずであると進言した。
柳沢吉保は徂徠の意見に満足し、綱吉に伝えたところ、綱吉も大いに悦び「切腹」となったという。
なお、徂徠の「徂徠擬律書」は徂徠の著作とは見做し難いように思われる。
もう一つの話は、公弁法親王の発言によるというもので、徳川実紀に書かれている話であるが、たんなる伝聞に過ぎず、将軍綱吉と懇意な間柄にあった法親王の言葉に仮託して創出した虚構の話であると思われる。
赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」には次のようにかかれています。
「評定所一座存寄書」は、偽書説もあるが、評定所の意見書であるとみていよいと思う。公弁法親王の言葉は、「誠に公平の処置とこそ申」べき意見であり、幕閣の処断に影響を与えたとみても決しておかしくない。
「徂徠擬律書」は、幕府に残らず細川家にのみ残っているいること、徂徠の「四十七士論」と発想にに違いがありすぎることから、むしろ後世の作とみる方がよい。
このように読み比べてみると、それぞれの本が取り上げている史料つまり「評定所存寄書」、「柳沢秘記」、「徂徠擬律書」、「公弁法親王の話」について、真偽のほどが疑わしいと書いている本が多いように思われ、赤穂浪士の「切腹」という処罰が決定された経緯がよくわかりません。
やはり「忠臣蔵第1巻」に
「当時の幕閣における協議の様子は不明であり、今はわずかに「評定所一座存寄書」や公弁法親王の意見とされる伝聞によって、幕閣内の模様の一部を垣間見、あるいは推測できるにとどまる」
と書かれているように、処分決定のプロセスははっきりしないいうことではないでしょうか。