第3回の模擬試験問題で、次の問題を出題しました。
7、赤穂浪士は討ち入りの際の注意事項を事前に定めて、「人々心覚」としています。
その中で、ある物を鳴らしたら、それが引き揚げの合図であるとしています。
それでは、引き揚げの際には、何を鳴らすと定めていたでしょうか?
①銅鑼
②陣太鼓
③鉦(かね)
④呼び子
そして、この正解は、③鉦(かね)としてあります。
これについて、山本博文先生著の「本当の忠臣蔵」には、銅鑼となっているが、銅鑼は間違いかという 質問をいただいています。
これについてお答えします。
「本当の忠臣蔵」の154ページに次のように書かれています。
「寺坂信行筆記」や「江赤見聞記」には、このとき申し合わされた「覚」が記されている。
これによれば、当日のてはずは次のようになっていた。
一、決行の日は、前日の夜から吉良邸近所の隠れ家三か所に静かに集合する。
(中略)
一、銅鑼の合図は、全員が引き取るときに打つ。
(後略)
これを読めば、当然、「銅鑼」という答えが正解となりますので、ご質問は的を得ていると思います。
そこで、山本先生が、引用されている「寺坂信行筆記」と「江赤見聞記」にどう書かれているか確認してみました。
「赤穂義人纂書」に収録されている「寺坂信行筆記」を読むと
押込道具用意の事
一、鑓十二筋 一、長刀二振
一、野太刀二振 一、斧二挺
(中略)
一、どら一ツ、是は屋敷を首尾能仕廻、其上にて人数揚候時相図の為なり。
(後略)
と書かれています。
これによれば、引揚げの時の合図として、「どら」が用意されたと書かれています。
しかし、残念ながら「人々心覚」の内容としてではなく、赤穂浪士が用意した押込道具の一覧として書かれているようです。
「赤穂義人纂書」に収録されている「寺坂信行筆記」についての解説には、「赤穂義士史料上巻には、足軽寺坂吉右衛門の孫の同名の者が、祖父の覚書が虫くいになっているを書き直したものとある」と書かれています。
また、赤穂市発行の「忠臣蔵第3巻」には、「寺坂信行筆記」でなく「寺坂信行自記」という史料が収録されています。
その解説にも、「寺坂信行筆記」は、寺坂吉右衛門信行が心覚えに書き留めたものを孫の信成が書写したものと書かれています。
そこで、「寺坂信行自記」を読んでみました。それには「覚」が書かれています。
それによると次のようになっています。
「覚」
一 定日相究ハゝ、兼而定候迄前日之夜中より物静ニ内々定置候而三ケ所江集可申事
(中略))
一 銘々(鉦之イ)相図は惣人数引取候時可打申事
(後略)
「寺坂信行自記」には「人々心覚」が「覚」として書かれているように思われます。
そして、そこには、注釈付きですが、鉦が相図だと書かれています。
次いで「赤穂義人纂書」に収録された「江赤見聞記」を読むと、「人々心覚」として次のように書かれています。
一 定日相究候はゝ、兼て定之通、惣勢内々之三ヶ所へ集リ可申事
(中略)
一 鉦之相図は惣人数引取候節打可申事
(後略)
ここにも、「銅鑼」でなく「鉦」と書かれています。
以上から考えますと、実際に用意され打ち鳴らされたものが「鉦」か「銅鑼」かいずれであるかはわかりませんが、少なくとも「人々心覚」で決められていたことは、引揚げのさいには「鉦」の相図が打たれるということだったようです。
問題の趣旨は、「『人々心覚』では、引揚げの相図として何を鳴らすと定めているか」という趣旨ですので、正解は 「鉦」としてあります。
ところで、「鉦」って、どんなものなんででしょうか。
ウィキペディアで調べると写真がありましたので、転載しておきます。
右上写真をご覧ください。
もし、これを打ち鳴らすとすると、本当に合図となるほど遠くまで聞こえたのからしと素朴に思いますが、ご参考に掲載しておlきます。
なお、模擬試験問題をはじめブログの記事で誤りや疑問に思う点がありましたら、御気兼ねなくご指摘ください。