赤穂浪士の葬儀がどのように行われたかについてまで書いたものがなかなかありません。
その中で、赤穂市発行の「忠臣蔵第1巻」と菊池明氏の「図解忠臣蔵」に比較的詳しく書かれていますので、それをもとに書いていきます。
四十六士切腹後、四藩はいずれも遺骸を桶に入れ、また身に着けた衣類や武具、花紙袋まで長持に入れて泉岳寺に送りました。
泉岳寺では、その夜、長恩和尚により、四藩ごとに引導を渡し、「刃(じん)」と{剣(けん)}を付けた戒名がつけれられました。
葬礼は、亥の上刻に始まり、丑の下刻に及び、泉岳寺僧、会下(弟子)の僧まで161人が参列し四藩の侍衆、足軽も大勢参加しました。
菊池明氏著の「図解忠臣蔵」によれば、赤穂浪士の遺骸が細川家を出発したのは午後6時30分ごろ、水野家が午後8時、松平家が午後10時、毛利家が午前0時と2時間ずつ違っていたそうです。
そして、泉岳寺での葬儀は午後9時から細川家の葬儀が始まり、毛利家が終わったのは午前3時ごろだったそうです。
赤穂浪士45人が、泉岳寺にまとめて埋葬されているのは、富森助右衛門が「泉岳寺の空地に17人とも一つの穴に埋めてほしい」とお願いし、細川家大目付に話したところ「もっともなこと」と言われたと「堀内伝右衛門筆記」に書かれていることによるようです。 しかし、泉岳寺には、遺骸45体をまとめて埋葬する場所がなかったため、内匠頭の墓碑の横手にあった藪を切り拓いて墓所にしました。
死骸は切腹した時のまま、上下着用の姿で土葬に付されました。
菊池明氏の「忠臣蔵」によれば、
「細川家の記録によれば、浪士たちの棺桶は土中深くに埋葬され、その上に墓石代わりの石を置き、さらに3尺の青竹で竹垣を組み、花立てを備えていたという。そして、火を灯した白張りの提灯を立て、それぞれの名前を記した木札を添えており、他家もこれに倣っている。
浪士たちの墓碑が建立さらたのは、五七日である切腹から35日目の3月8日のことだった。」そうです。
葬料として当夜、細川家は30両、松平家は50両、毛利・水野は20両を納め、細川家は、翌日さらに茶湯両として50両を寺に納めました。
赤穂浪士の葬儀について詳しく書いてあるのが「白明話録」です。
「白明話録」には次のように書かれています。
元禄16 2月4日葬送、亥上刻に始まり、丑の下刻に終わる。
先に細川殿御預りの分至る。此先後は四家の泉岳寺へ遠近のちがいある故也、泉岳寺9世酬山長恩和尚乗矩の仏事に、右徳剣刃の公案を擧著す。この故に衆士の法名ことごとく剣刃の二字を用ゆ、墓地も地がなくて、副司が急に存じ付、藪を引除け急に広めたなり、夫で浅野殿のは下の方也、藪より外に地がない。それで少し上の方也。和漢三才図会の図は違へり、あの図の6人は大石の方よりかぎの手にいたなり。勿論土葬なり。墓表は出羽の台雲が書たるなり、台雲は泉岳寺8世和尚の弟子なり。
赤穂浪士が切腹した4日の夜半から天候が俄かに急変し、風雨がおびただしく三日三夜続き氷も降ったと書いた書物もあるようです。
これは宮沢誠一氏によれば怨霊信仰によって浪士の死を畏怖し哀惜する人々の心を表そうとしたからだろうということのようです。
しかし、先に引用した「白明話録」によれば、
「義士葬の後三日雷雨震雷」という記述はでたらめで、だいたい天気は快晴で夜になって少し雨が降るくらいであったと次のように書いてあります。
義士葬の後三日雷雨震電というも、跡もかたも無きことなり、先義士葬り仏事果て、合山の大衆各学寮へ帰りしは、既に暁更なり、翌五日の早朝、庫裏より人夫を遣はし、昨夜戴捨し竹木を他所へ移し、終日土を運び石をのけ、地形を平にし墓所を掃除し香花を備ふ、其翌六日、石切を呼石塔を造営せしめ、終に多日ならずしてこれを成す、
かくの如き作事の間、一日も蓑笠の入用なし、天気尤快日なり、倶戴日の中すこしく夜雨を催せしこともあれども、大雨なし、
とあり、赤穂浪士が切腹したことにより天気が荒れることはなかったようです。