町奉行所は、俗に南町奉行所、北町奉行所と呼ばれます。
こう呼ばれますので、江戸には、町奉行が2か所あったことは良く知られています。
しかし、長い江戸時代の中では、一時期、南町奉行所、北町奉行所のほか、中町奉行所があり、3奉行所体制の時代がありました。
それは、元禄15年(1702)から享保4年(1719)の間の17年間でした。
その時期以外は、南北奉行所の2奉行所体制でした。
南北と言うと、江戸を南と北に分けて管轄したように思われがちですが、町奉行は、江戸市内を南と北に管轄を分けていたわけではなく、一月交代で業務を行っていました。
これを月番制と言います。
月番の時には、奉行所の門を開き、訴訟などを受け付けました。
一方、月番でない奉行所の方は、前月までに受理した訴訟などの審理・処理に取りくんでいて、決して休んでいるわけではありません。
奉行所の前に冠せられる「南北」という呼称は、奉行所の所在地の相対的な位置関係により呼ばれていました。
幕末の南町奉行所は数寄屋橋門内にあり、北町奉行所は、呉服橋門内にありました。
数寄屋橋門は、呉服橋門より南にあるから、その門近くに有る奉行所が「南町奉行所」と呼ばれ、呉服橋は、数寄屋橋の北にあるため、呉服橋近くにある奉行所が「北町奉行所」と呼ばれました。
従って1つの奉行所が移転されたことによって、各奉行所間の位置関係が変更されると、移転されなかった奉行所の呼称も変更されることになりました。
例えば次のようなケースがあったようです。
宝永3年には、北町奉行所は常盤橋門内にあり、中町奉行所は呉服橋門内、南町奉行所は鍛冶橋門内にありました。
それが、宝永4年に 常盤橋門内にあった北町奉行所が、数寄屋橋門内に移りました。
すると、相対的な位置で最も北になった 呉服橋門内の従来の中町奉行所が北町奉行所と呼ばれるようになり、南町奉行所と呼ばれていた鍛冶橋門内の奉行所が中町奉行所とよばれるようになりました。
このように、南と北はあくまでも相対的な呼び方です。