与力という言葉は、元々、協力加勢という意味で、鎌倉時代から使われ、戦国時代に一般化し、同心とともに侍大将などに付属した騎馬の士をいい、寄騎とも書きます。
江戸幕府では、留守居、大番頭、書院番頭、先手頭、定火消、町奉行など 地方では、京都所司代、駿府城代、大坂町奉行、奈良奉行などに配属されました。
このなかでも、特に江戸の町奉行配下の町与力が有名です。
というより、与力と言えば、江戸の町奉行の配下の人たちと思っている方も多いと思います。
町奉行配下の町与力は、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたりました。
町奉行に配属された与力は、享保4年に、南町・北町奉行所に各25騎の与力が配置されることになりました。
なお、与力は騎乗することが許されたため「何騎」と数えます。一方、同心は徒歩でしたので「何人」と数えました。
与力には、町奉行個人の家臣である内与力と、奉行所に所属している役人としての通常の与力の2種類がありました。
内与力以外の与力は、町奉行個人の家来ではなく、町奉行所に配属されて、生涯奉行所に勤めています。 そのため、新任の町奉行であっても、奉行所の運営に支障はありません。 現代で言えば、新任大臣が任命されても、各省庁の官僚がしっかりしているため、事務が滞らないのと一緒です。
与力は200石取りといわれていますが、一定の場所に200石の土地を知行地としてもらっているわけではなく、与力全体で1万石の知行地を上総・下総で拝領していました。
つまり与力全体で1万石の知行地を持っているという事で、こうした土地を大縄地といいます。
それぞれの与力は、1万石のうちに、200石の持ち分を持っているということになります。
与力の収入は、この知行地からの収入の他、諸大名や町家などからの付け届けが多かったそうです。
200石取りということになれば、普通であれば将軍に謁見する資格がある「御目見以上」の旗本ですが、与力は、将軍に謁見する資格がない「御目見以下」で、御家人並でした。
また、与力は、騎乗の資格がありましたが、戦闘に動員されることはなく文官的性格が非常に強いものだったようです。
多くの与力の身分は一代限りの「抱席(かかえせき)」でした。「抱席」というのは、その役職に一代限りで任用された身分のことを言います。従って、親が与力だからと言ってその子供も与力になれたわけではありません。
しかし、実際には世襲された例が多かったようです。