同心という言葉は、もとは同意・協力する人を意味しました。与力と同じように鎌倉時代から使われ、戦国時代には,侍大小の組下に編入され,その指揮に従う武士を与力・同心と言いました。与力は騎馬でしたが、同心は徒歩(かち)でしたので、与力の何騎に対して同心は何人と数えられました。
江戸幕府では、与力と同じように多くの役職に同心がつけられました。
笠間良彦氏著「図説江戸町奉行所事典」によると、戦国時代に足軽と呼ばれた武士が、江戸幕府では「同心」と呼ばれるようになったようで、次のように書かれています。
「かつて戦時中の足軽であり、現在で言う兵隊である。葉武者・端武者・青歯者・青葉者と言われる物の数でない最下底の武士であるが集団として重要な戦闘員である。
室町時代を通じて足軽のいない部隊は、団体戦の性質上、戦法・戦術に効果を現さない。鎗・鉄砲・弓の兵種別の重要な戦闘員で、一代抱えにしろ、臨時雇いにしろ、一編成としてその威力を高く評価されていた。
その足軽は大名によって同心といい与力(寄騎)といったが、江戸幕府では、同心の数人の指揮者を与力といい、一般足軽を同心とし、足軽と名付けるものはさらに身分の低い奉公人の一種をさしていった。」
また、「足軽は五両から三両二分の奉公人の称となり、元の足軽はすべて同心の名称が用いられた」とも書かれています。
同心は、昨日書いた与力と同じように、留守居、大番頭、書院番頭、先手頭、定火消、町奉行など多くの役職に配属されていました。
その中で、最も有名なのが町奉行の同心です。
町同心は、享保4年に、南北奉行所それぞれに100人合計200人と定められました。
しかし、延享2年には、同心20人ずつ増員し弘化末年には見習同心18人ずつ増員し、安政6年には仮御抱同心を40人ずつとしましたので、幕末には定員が180人となりました。(南和男氏著「江戸の町奉行」より)
25.11.21追加
八丁堀の京華スクエアに設置されている「八丁堀の与力同心組屋敷跡」の説明板には、「南北奉行所が成立すると、与力50人、同心280人に増加し両町奉行所に分かれて勤務していました」と書かれているので、ほかの本も調べてみました。
横倉辰次氏著の「江戸町奉行」には、享保4年、中町奉行所が廃止され、南北両町奉行所の同心数は、ともに書く百名となった。延享2年寺社門前の町家が、町奉行の支配下に移ると、南北両奉行所に各20人づつ増員したので、同心数は120名となった。さらに幕末になり物情騒然となるにおよんで、同心は18名増員されて南北ともに各138名となった。
と書かれていて、中央区教育委員会の説明とほぼ一致します。
つまり、南和男氏著の「江戸の町奉行」で書かれている安政6年の増員が含まれていないものと思われます。
同心は、30俵2人扶持と微禄でしたが、町奉行所の同心は、与力と同じように付届けが多かったため、他の同心と比べて生活にはあまり困らなかったようです。
同心は、「抱席」の身分でした。もちろん「御目見以下」の御家人です。
しかも、笠間良彦氏著「図説江戸町奉行所事典」によると、
「一年ずつの抱えが原則であるので毎年大晦日の夜の、上役の与力の屋敷に呼ばれて、長年申付くることと申渡されて、次の年も引き続いて勤めるしきたりがあった。これは千国の時代に臨時雇いとして掻き集められた多形態の名残」だそうです。
これを読むと、与力は「抱え」として一代の間は雇用が保障されていましたが、同心は、同じ「抱え」でも一年と限られていたようです。
しかし、実際は、親から子へと世襲されることが圧倒的に多かったようです。
同心の役格は年寄、増年寄役、年寄並、物書役、物書役格、添物書役、添物書役格、本勤・本勤並、見習い、無足見習いの11に分かれていました。
与力と同心は、家格や俸禄の差だけではなく、職務上もはっきりと上下の身分関係にあったようです。
与力が吟味方・本所方などと記されているのに対し、同心は吟味方下役同心とか本所方下役同心と書かれていて「下役」であることが明記されているそうです。
そのため同心のみで構成する三廻り(さんまわり)を除いては、町奉行から直接命令を受けたり、町奉行に直接返答書を提出することはなかったようです。