町奉行は老中のもとで江戸府内の武家・寺社の除いた市民の行政・司法・警察の業務を行いました。
定員は寛永12年に2名となり、元禄15年(1702)から享保4年(1719)までの17年間は3名でしたが、享保4年以降は2名でした。
旗本のなかから人材が選ばれ、享保8年に足高の制が施行されると役高3000石と定まりました。
南和男著「江戸の町奉行」によると、役高3000石の町奉行職に、加々爪忠澄(かがづめただすみ)以下幕末までに家禄が3000石以下のものが任命された例は80%を越えるそうです。
「さらに家禄が1000石以下の者で任命された例も少なくなく、22名に上り、遠山金四郎景元、根岸鎮衛(やすもり)、矢部定謙(さだのり)などは500石、坂部広隆は300俵、さらに幕末の井上清直、佐々木顕発、都築峰暉は200俵でした。
これらは家禄よりも人材を重視して町奉行に登用されていたことを物語るものであり、いかに町奉行の職そのものが重要視されていたかを示すものである」
と南和男氏は述べています。
業務は多忙であり、市中の治安維持、裁判にとどまらず民政全般にわたり、上水や新田開発業務に従事したこともあります。
また、大火や大規模な騒乱事件にあたっては町奉行自身も出馬して現場の指揮にあたることもありました。
さらに、寺社奉行・勘定奉行とともに評定所(幕府の最高合議機関)に参加し、政策決定に参画しました。
執務は月番交代制で行われ、月番の町奉行は奉行所の表門を八文字に開き、訴訟や誓願などを受け付けました。非番の月には表門を閉ざしていましたが、継続している訴訟などの業務を行っていましたし、内寄合という町奉行同志の協議も月3回(6日、18日、27日)月番の奉行所で行われました。
月番の町奉行は朝4ツ(午前10時)には江戸城に登城して老中などへの報告や打ち合わせを行い、八ツ(午後2時)には奉行所に戻り決裁や裁判を行ない、夜遅くまで執務していました。そのため役宅は奉行所内にありました。
このように町奉行の職務は激務のため、在職中に死ぬ者も多く、「江戸の町奉行」によれば、町奉行在職中に16人が死亡していて、全奉行の18.9%にあたるそうです。
さらに「江戸の町奉行」には、次のように書かれています。
そのうちの半数の8人は、就任後3年以内であり、数年内に死去しているのが10人だそうです。
勘定奉行在職中の死亡率は13.7%、寺社奉行は7.7%にすぎない。これらと比較してもやはり町奉行の職は激務であったといえよう。
約2割の町奉行が在職中になくなっているんですからすごいですね。驚きました。
町奉行って大変なお仕事だったんですね。
右上写真は、東京駅日本橋口近くの 丸の内トラストタワーの敷地内にある「北町奉行所」の説明板です。