「江戸町奉行事蹟問答」には次のように書かれています。
「(前略)火災水災あれば町火消或は水防夫を集め奉行自ら出馬して指揮をとり、狼藉乱妨(暴)人あれば与力同心を派出してこれを鎮め、重大の事件は自ら出馬して其の責任に充るなり」
このうち、大火出役については書きましたが、重大事件での出馬の例が書かれています。
それは、天保の改革を行った老中水野忠邦が老中を罷免された際に、水野邸に江戸市民が集まり投石を繰り返した事件に、時の南町奉行鳥井甲斐守が出馬しています。
「江戸町奉行事蹟問答」には次のように書かれています。
天保13年9月13日、御老中水野越前守御役御免に相成り。西ノ丸下屋敷引払いの節、誰発意なるや、夕刻より追々門前へ見物集り来り、門番これを制したるより事起り、石を投げ始め、追々乱妨(暴)はなはだしく、御目付より月番町奉行鳥井甲斐守へ達しありにより、奉行は談合与力同心を引具して速やかに出張せり。
其の時、余(佐久間長敬)が父なども出役せしと聞く。多くは近辺の仲間・小者など姿をかへて来りしもあり。或は先に免職になりし役々の仲間など所々に離散しありしが、此の時に至りて兼て遺恨を晴らさんと、誰申し合せたるになく集り来り、仲間同士の口論を仕かけんと巧しなり。四、五人召し捕りのありしが、其の実を得ずして事済みたり。
水野忠邦が免職なった際に、自然発生的に市民が、水野邸に集まっていましたが、門番がこれを制したところ、投石を開始し、狼藉が激しくなったため、目付の指示により月番の南町奉行鳥井甲斐守が出馬したと書かれています。
結果として四,五人を逮捕して、事件は解決したようです。
なお、水野忠邦が、罷免された際に、江戸市民が屋敷投石したということは知っていましたが、その記録は、こんなところに残っていたんだと驚きました。
「江戸町奉行事蹟問答」には、町奉行の市中巡察の様子も書かれています。
これによると、町奉行の市中巡察は、就任時の一度行ううようです。
これは、事前に道筋が通知され、町役人も出迎えるようですので、新任町奉行のお披露目という性格が強いように思います。
「市中巡察は御役拝命後一度、其の他臨時巡行なり。前もって道筋を定め触れ渡し、名主始め町役人出迎え、鳶人足鉄棒を置き、先立(さきだち)にて通行の町人を制し、下座触をなさしめ通行するなり。其の日は紋付、表白裏金陣笠、羽織、馬乗袴にて乗馬にて巡るなり。与力同心は羽織白衣にて多人数付添い前後を固めて通行し、昼飯は弁当にて金銀座、其の外支配内役所にて弁じ、町人宅などへは立寄ること一切なし。若し模様により弁当都所が差支(さしつ)える時は寺院を借り受け立寄るなり。」
昼食を食べるところも、金銀座など町奉行管轄下の役所を利用し、町人宅は利用することはないようです。
右写真は、東京都教育委員会の「北町奉行所跡」の碑です。先日の「南北奉行所跡」散歩の際に、「えぇー、こんな所にあるのっ」とびっくりされたものです。
詳しくは、後日、ブログアップします。