「江戸町人の研究」第4巻に、南和男氏が「町奉行-享保以降を中心として-」という論文を書いていますが、そこに与力同心の分掌について、時代変遷とともに詳しく書かれています。
与力同心の分掌については、幕末の分掌を例に出したり、時代変遷を考慮せずに、いろいろな時代の分掌を一括して説明したりしているケースが多いのですが、この論文では、時代とともに分掌が変わってきたことがよくわかります。
そこで、それに基づいて、与力同心の分掌について書いてみたいと思います。
その前に、①与力同心が何歳まで勤めたか、②異動はあったのか についても触れられていました。これも興味深いテーマですので、今日は、その2点について書いてみます。
まず①の何歳まで勤めたかですが、2人の例が書かれています。
与力服部仁左衛門 文化10年現在76歳 48年
同心神田造酒右衛門 文政6年現在 71歳 57年
これを見ると、健康である限り、年齢に関係なく勤めていたようです。
こうして老練な与力同心がいるから、少人数の与力同心でも、江戸の治安や町政を維持できていたんですね。
次いで②の異動があったかですが、これも都築十左衛門の例が書かれています。
文化13年(1804) 抱入
文政2年(1819) 高積見廻
文政3年(1820) 例繰方
文政7年(1824) 永代橋掛直御修復増掛
文政8年(1825) 例繰方
文政9年(1826) 牢屋見廻
文政11年(1828) 本所方
天保13年(1842) 吟味方
天保14年(1843) 町会所掛
天保14年(1843) 本所方
天保14年(1843) 年番米方掛
この後、安政4年(1857)12月25日に年番米方御免になるまで、川浚掛や古銅吹所見廻、下田表取締筋取扱など、諸々の掛を兼任しています。
年番米方という担当について説明はありませんが、年番という分掌のうちの一担当だと思われます。
年番という分掌は、年功を経た老練な与力が任命され、町奉行所の財政・人事をはじめ総括的な事項を取り扱う最も重要な役職でした。
年番は、享保の頃は、年番与力は、その名前の通り毎年交替していたようですが、後期になると毎年交替しなくなりました。都築十左衛門は、年番を14年間に亘って勤めています。
都築十左衛門の例を見ると、目まぐるしく担当が変わっています。与力同心は一つの掛に長年担当するイメージがありましたが、そうでないケースもあるということが良くわかります。
現在のサラリーマンと変わらなかったようですね。
なお。南論文では、「同心都築十左衛門」と書かれていますが、十分確認していませんが「与力都筑十左衛門」が正しいような気がします(為念)。