今日は、享保期の与力同心の分掌について、南和男先生の論文をもとに書いていきたいと思います。
南先生の論文によると享保期の与力同心の分掌は次の10個です。
①歳番(年番)、
②本所見廻り、
③牢屋見廻り、
④養生所見廻り、
⑤出火之節人足改、
⑥火事場建具改、
⑦風烈廻り、
⑧新地家作改
⑨地方(じかた)改、
⑩町廻り
享保以前からの分掌は歳番、牢屋見廻り、町廻りの三つだけでした。
残りの七つは享保2年の大岡越前守の町奉行就任以降に設置されたもので、大半は防火など時代の必要性により新設したものです。
1、歳番は、のちに年番と書くようになりました。
昨日書きましたが、享保期には、年番の名前の通り、毎年交替したいたようです。
しかし、その後、年功を経た老練な与力が任命され、毎年交替することはなくなりました。
人数は、当初は南北奉行所それぞれに一名でしたが、その後2名宛となり、幕末には3名となりました。
その任務は、町奉行のもとで、町奉行所の財政・人事をはじめ総括的な事項を取り扱う最も重要な職でした。
2、本所見廻りは、享保4年(1719)4月、本所奉行の廃止にともない、本所・深川は町奉行が支配するようになりました。
そのため、南北奉行所から与力1名宛、計2名が本所見廻りとして享保4年9月に任命されました。
本所見廻りは、本所深川方面の橋普請、川浚い、道路普請、建物調査などを担当しました。
3、牢屋見廻りは、小伝馬町の牢屋の見廻りですが、従来与力が毎日牢屋に詰めていたのをやめて、必要により2~3日連続して見廻るなど不定期としました。また、南北4人合計8人の与力が2か月ごとに交替していたのを改めて、享保5年からは南北奉行所各一名刑人が一か年交替としました。
4、幕府の常設の社会事業施設として特色のある養生所は、享保7年12月に設置されましたが、それに先立ち諸準備のため2月から係与力が任命されました。与力は病人出入りの改め、総賄入用の吟味、病人部屋見廻りなど一切の指図を行い、同心は賄所取締り、諸物受け払いの吟味、薬煎の立ち会い、病人部屋見廻り、錠前預かりなどを行いました。
5、享保期の防火策として町火消の設置があります。火事場に規定の火消人足が出動しているかを調査するのが、町火消人足改です。享保5年8月の創設で、南北奉行所から7人の与力が任命されました。後に消火の指揮監督にもあたるようになりました。
6、火事建具改は、火災時に建具をはずして持ち出すことを再三禁止しましたが、それが改まらないため、享保10年3月取締りのために与力3人、同心3人を任命しました。ただし、この担当は、天明期にはないそうです。
7、風列廻りは、享保17年3月に設置された担当で、放火を防止するため、強風の折に、牛込・大塚・小石川・本郷・丸山辺りを巡視し、特に強風の時には麻布・青山辺りまで巡視し、風体挙動の怪しいものを捕えました。
8、新地家作改は、新開町並地における家作の建坪、畳坪、地坪などを調査する掛ですが、享保16年には廃止されています。
9、大岡越前守忠相は、享保7年6月、町奉行のまま関東地方の新田開発や治水などの農政を担当する地方(じかた)御用掛を兼務することになりました。
このため、南北町奉行所にそれぞれ与力一人、同心2人が任命され、新田開発等に関する事務を担当しました。
10、町廻りは、寛文2年(1662)に設置された掛で、同心だけの分掌です。
これについては、後日詳しく書きます。
右写真は、有楽町駅前の「有楽町イトシア」です。ここに江戸時代には南町奉行所がありました。