合格された方、本当におめでとうございます。
涙をのまれた方、本当に残念でした。できるだけ早く心の整理をされて、捲土重来を期されるよう願っています。頑張ってください。
さて、享保以降、寛政までの間に設けられた与力同心の分掌は、
①高積見廻り
②吟味方
③赦帳幷撰要方
④例繰方
⑤江戸川神田川見廻り
などです。
隠密廻り、臨時廻りもこの時期に設置されたと考えられています。
寛政の改革にともない町奉行所に新たに設けられた分掌は、
⑥諸色取調方
⑦江戸向橋掛
⑧浅草会所見廻り
⑨籾蔵定掛(のち町会所掛)
⑩人足寄場掛
⑪古銅吹所見廻り
⑫酒造掛
などです。
1、高積廻りは、元文4年の火災を機に設けられたもので、防火上河岸に薪材木などを5尺以上高積みするのを禁止しましたが、それを取り締まるのが高積廻りです。
2、吟味方は、民事事件の審理・和解勧告、刑事事件の審糾および終結・執行に関する事務を取り扱う掛です。
吟味方は、享保期には明確な分掌としては区分されていませんが、天明期にははっきりと一分掌となったとのことです。
3、恩赦が行われる時に遠島以下のものを御家人・雑人に分類した「科書帳面」が提出されますが、赦帳掛は、その作成にあたります。また、撰要方は、「撰要類集」作成のため日常書類を書き抜き、分類整理する担当です。
4、例繰方は、諸帳を調査して罪状を分類整理した書抜帳作成しておき、判決の案を示されると、その書抜帳を確認して類例を報告する掛です。
5、江戸川・神田川の常浚は、寛延3年(1750)から北町奉行所の掛となり、常浚見廻りは、北町奉行所の与力2人、同心4人で、毎月5~6度づつ陸又は船で見廻りました。
6、寛政の改革では、物価引下策や町法改正は重要な政策でした。
諸色取調方は、諸問屋の帳簿類の調査や町入用の節減、積金・囲い米などの取り扱いについて寛政2年2月に設けられました。勘定組頭、支配勘定と町方の与力同心ら15人からなっていました。
7、江戸向橋掛は、幕府が寛政2年2月、江戸の橋梁の掛替や修理を幕府請負と改め、町奉行・勘定奉行の支配としたことに設置された掛です。のちに定橋掛を呼ばれるようになりました。
8、棄悁令によって打撃を受けた札差の資金融通のため幕府は寛政元年(1789)12月に浅草猿屋町に会所を建てました。
9、人足寄場は、最初町奉行の支配するところではなかったが、寛政7年より町奉行も関与することとなって、人足寄場掛が設けられました。
10、古銅吹所見廻りは、寛政6年古銅吹所を江戸に設置する下調査として与力同心各一人が吹所見廻りとして任命されました。寛政8年8月本所横川町に吹所ができた以後も町方に関連あるときは同所を見廻り、新銅試吹などの場合には連日吹所に詰めました。
右写真は、JR東京駅日本橋口の東にある丸の内トラストタワー本館の入り口です。
江戸時代には、この辺りに北町奉行所がありました。