北町奉行所跡の石碑は、現在2ヶ所にあります。
一つは丸の内トラストシティN館東側、もう一つが東京駅八重洲北口の先にある大丸デパートのハズレにあります。
丸の内トラストシティは、もとは東京駅の側線や東京鉄道管理局等のあった東京駅八重洲口に隣接したJRの鉄道用地でしたが、その土地を森トラストが購入して建設した高層ビルです。
北側の丸の内トラストタワーN館と南側の丸の内トラストタワー本館の2棟が建っています。
北町奉行所は本館の部分にあったようですが、「北町奉行所跡」の石碑は、N館の東側にあります。
北町奉行所というのは、南に対する北ということで、常盤橋門内にあった時代とここ呉服橋門内にあった時代がありますが、文化3年(1806)にここに移転してきた後、幕末まで、北町奉行所はここにありました。
遠山金四郎つまり遠山左衛門尉景元は、天保11年から天保14年まで、3年間、北町奉行を勤めていました。
北町奉行所は、約2560 坪あり、表門は、南町奉行所と同じように東向きにありました。
話は変わりますが、忠臣蔵の吉良上野介の屋敷があったのは本所であったというのは有名な話です。
吉良上野介の屋敷は本所に移転する前は、呉服橋門内にありました。しかも、北町奉行所と同じ場所が元禄時代は吉良上野介のお屋敷でした。
さて、東京都教育委員会が立てた碑は、以前は、東京駅八重洲北口を出た国際観光会館前に設置されていました。
この碑は、結構目立ちましたので、江戸に関心をもっていなかった頃の私も、この碑は知っていました。
東京駅の改修工事後は東京駅の八重洲北口近くに移りました。
これが非常にわかりにくい場所に設置されています。ここを案内すると多くの人が「こんな所にあるのかぁ」と驚きます。
そこで、その碑の設置されている場所を説明します。
八重洲北口改札を出て、直進すると大丸になります。
この大丸に入店せずに、大丸と通路の境にある壁に沿って北にまっすぐ進みます。
するとその先は、出入り口になっています。出入り口の先には丸の内トラストシティがあります。
その出入り口の足元に碑があります。
下図は東京駅の構内図ですが、青でマークした部分が八重洲北口改札です。
赤で囲った部分が北町奉行所跡の碑の説明部分です。この部分の最も左の部分に碑があります。
この説明でわかりますでしょうか?
北町奉行所跡の碑は、現在、八重洲北口を出た先にあるグラントウキョウノースタワー前の歩道脇に移転しています。
新しい設置場所は、下記地図を参照してください。
また、新しい記事もご覧ください。
⇒ 『北町奉行所の碑の設置場所が変わっていました。』
2016年5月13日追記