「兎の羹」については、江戸検一級のテキスト「博覧強記」78ページに書かれています。
しかし、ここでは、「寛政重修諸家譜」の林氏の家譜に書かれていることを紹介します。
それによると
林氏は、甲斐源氏小笠原氏の傍系であり、小笠原清宗の二男光政が信濃国林(現在の松本市)に住んでいました。
徳川家康の先祖松平親氏が、林光政の家で、越年することがありました。その際、饗応するものがないので、光政が自ら山野で猟をし、兎を獲ました。そして、正月元日にこれを吸い物として新年を祝いました。
この時、親氏の仰せにより、家名を林と変え、それから三河にお供し仕えました。
これにより、代々元旦に兎を献じて一番に御盃を賜わるようになりました。
と書かれています。
なぜ、新年のお祝いに兎の吸い物が出るのか疑問でしたが、兎が目出度い動物だったとかではなく、たまたま兎が捕れたからなんですね。
ところで、この林氏について、幕末に大変おもしろい話があります。
林氏は、文政年間まで、江戸時代を通じて、代々旗本でした。
しかし、江戸時代の後期の文政8年(1825)、徳川家斉の寵愛を受けていた林忠英の代に上総貝淵藩1万石の大名となりました。
そして、忠英の子の忠旭の代に陣屋を上総請西(じょうざい、現在の千葉県木更津市)に移し請西藩となりました。
そして、請西藩 3代藩主の林忠崇は、慶応3年(1867)年8月に藩主となりましたが、まもなく鳥羽伏見の戦いが起こり旧幕府軍が敗れ、戊辰戦争が始まりました。
戊辰戦争の際に、林忠崇は、旧幕府軍の遊撃隊などを率いて、藩主であるにも関わらず自ら脱藩して、旧幕府軍として戊辰戦争に参戦し、仙台まで戦い続け、仙台で降伏しました。
藩主が脱藩した請西藩は明治新政府により改易となりました。戊辰戦争で改易となったのは、請西藩だだ一つでした。
この林忠崇について書いたのが、中村彰彦氏著の「脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯」です。
私は、まだ読んでいませんが、読んでみたいと思っている本の一つです。
さて、前段の方が、長くなってしましたが、大奥での正月の料理で、七日の七草と十一日の鏡開きについて「定本江戸城大奥」に書いてあって気がついたことを書いておきます。
七草の際、大奥では、朝飯に白粥を上つると書かれています。
「白粥」であるところが、一般の家庭と違っています。
また、七草爪について
御飯後、御膳所より瀬戸物の壺へ七種を盛り白木の三方へ載せて出すを、御台所お手づから採り上げ草の露にお爪を湿して剪る。是を七種爪と取るというなり。
と書かれています。
一方、「守貞謾稿」には
薺(なずな)を茶碗にいれ、水にひたして、男女これに指をひたし爪をきると、七草爪という。
と書いてあります。
微妙な違いはあるものの、七草爪は大奥でも庶民でもほぼ同じようだったと思われます。
また、11日の鏡開きについては次のように書いてあります。
御鏡開きのお祝いあり、表にてお具足開きの式あるに同じ二度目の御飯の前におゆるこ(おしること言わず)を上つる。
器物は黒塗金蒔絵にて、鶴亀または松竹梅の模様あり三椀が例なれども概して一椀の外は召さず。八ツ頃お側にておゆるこ下さる。御台所御自分に盛りて強い付くるに果ては持て余し困じ果つる計りなりとぞ。
将軍付の女中へは直きに下されず、餡に餅を添え重箱に詰めこれをば部屋部屋へ贈るなりと書かれています。
大奥でも、鏡開きにお汁粉を食べたようです。
江戸時代の初めは、武家は、鏡開きの際にお汁粉を食べなかったと言われていますが、「定本江戸城大奥」は幕末の大奥の様子を書いているので、幕末には、お汁粉を食べていたようです。
また、大奥では、「おしるこ」と言わず「おゆるこ」といったようですね。
そして、八ツ時(午後2時)頃、御台所が御自分でお汁粉を盛って、側に仕える女中たちに強いたので、困り果てたとも書いてあります。
なんか新年らしくほほえましいですね。
なお、「守貞謾稿」に、京阪と江戸のお汁粉の違いについて書かれています。
江戸は、赤小豆の皮を取り、白糖の下品あるいは黒糖を加え、切り餅を煮て、汁粉(しるこ)と言う。
京阪では、赤小豆の皮を取らず、黒糖を加え丸餅を煮て、善哉(ぜんざい)と言い、京阪では、赤小豆の皮をとったものは、しるこまたは漉餡の善哉と言う。
現在でも、この呼び名の違いは残っているように思います。