これが「法務省旧本館」です。ここも「霞が関赤坂散歩」でご案内しました。
「法務省旧本館」は、姿の通り「赤レンガ棟」とも呼ばれているドイツネオバロック様式の庁舎で重要文化財に指定されています。
明治のはじめ、明治政府は、官庁を集中させる計画をたて、ドイツ人建築家エンデとベックマンをドイツから招聘しました。
そして、 基本設計はエンデとベックマンが行い、実施設計と工事監理は河合浩蔵が行って、明治28年に竣工したのが司法省建物(現在の法務省旧本館)です。
なお、中央官庁集中計画ですが、司法省を起工しましたが、敷地が非常に悪かったため、計画の全体を変更せざるをえませんでした。
そのため、日比谷練兵場跡の海側半分を占める軟弱地は公園(現在の日比谷公園)とし、司法省の隣地に裁判所を設置することになりました。
地盤が軟弱であったのは当然だと思います。家康が江戸に入った頃には、日比谷は海であったのですから。
司法省建物は、施工中の明治24年に濃尾地震が発生したため、耐震性の強化にも力を注いで建設されました。
そのため、関東大震災では、煉瓦外壁が鉄材で補強されていたことでほとんど被害がありませんでした。
しかし、昭和20年の空襲では、壁面と床以外を全て焼失してしまいました。
その後、戦災で大きな被害を受けた建物は昭和25年に修復され法務省本館として利用されていましたが、平成7年当初の姿に復原されました。
この敷地は江戸時代は、米沢藩上杉家の上屋敷でした。
この斜め向かい側は、総務省ですが、そこには、広島藩浅野家の上屋敷がありました。
上杉家と浅野本家といえば、まさに忠臣蔵の敵同士となります。
その二藩の上屋敷がごく近くにあったことになります。
もっとも、上杉家の表門は、江戸城を向いていましたので、表門同士が向き合うという位置関係ではありませんでした。
桜田門寄りの法務省の敷地の縁に米沢市が設置した「米沢藩上杉家江戸藩邸跡」の碑が設置されています。(右写真)
赤印が「法務省旧本館」です。青印が「米沢藩上杉家江戸藩邸跡」の碑です。