仙台味噌は、江戸甘味噌、西京味噌などと共に代表的な米味噌です。
しかし、江戸甘味噌、西京味噌などが麹歩合が20前後fで甘味噌であるのに対して、仙台味噌は、麹歩合が5~10の辛口味噌に分類されます。
米麹の辛口味噌には、淡色辛口味噌と赤色辛口味噌があります。
淡色辛口味噌の代表は信州味噌で、赤色辛口味噌には、津軽味噌、秋田味噌、越後味噌、佐渡味噌、越中味噌、加賀味噌などがありますが、その代表が仙台味噌です。
戦国武将たちは皆、戦いのための兵糧には重大な関心を持っていました。とくに米と味噌、この2つは絶対に必要な兵糧でした。
そのため、味噌の携帯には工夫がこらされていて、焼いたり干したりしてみそ玉にしたものを竹の皮や手拭で包み、腰に下げて、戦場に向かいました。
また、干した野菜類を味噌で塩辛く煮詰めそれを干し固めて携帯し、陣中で煮ればそのまま味噌汁になる方法も考え出されたそうです。
戦国時代を戦い抜いた伊達政宗は、味噌の重要性を認識し、軍用味噌を自給しようと考え、城下に「御塩噌蔵」と呼ばれるみそ工場を建てました。
これが最初のみそ工場であり、仙台味噌の始まりだとも言われています。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、伊達政宗が朝鮮に渡り蔚山で戦った時、他藩の味噌は夏期に腐敗してしまいましたが、仙台味噌は少しも変質せず味も優れていたので、「仙台味噌」の名を上げたと伝えられています。
江戸時代、仙台藩は江戸市中に7ヶ所の仙台藩邸がありそこには三千人の藩士が住んでいたと言います。
その藩士の食料として、当初、味噌は仙台の「御塩噌蔵」から運ばれました。
やがて、江戸でも味噌を造る事となり、大井の下屋敷に味噌蔵がつくられ、国許からの大豆・米で味噌が仕込まれるようになりました。
江戸の庶民は、下屋敷をいつしか「味噌屋敷」と呼ぶようになりました。
そして、「味噌屋敷」で作られる味噌がおいしいとの評判は、江戸市民に広がり、2代目藩主忠宗の頃から一般にも払い下げられるようになりました。
そして、「仙台味噌」の名でよばれるようになりました。
大井の下屋敷跡には、明治になって、仙台藩から払い下げを受け、仙台味噌を造り続けている「八木合名会社仙台味噌醸造所」があります。
私は、まだ訪ねてことがないので、機会をみつけて訪ねてみたいと思います。
なお、昨日紹介した浅草の「万久味噌店」では、仙台味噌も販売しています。
上の写真は、「万久味噌店」で、撮影したものです。