まずは、「砂糖」の歴史についてです。
日本における砂糖の歴史は、天平勝宝6年(754)、唐から鑑真和上が日本に渡ってきた際、砂糖を持参したと記録されているのが、始まりのようです。
その後、目立った動きはないようですが、中国から少量の砂糖が輸入されていたようですが、主に薬用として使用され、貴族や富豪の間で甘味料として珍重されていたにすぎません。
「附子(ぶす)」という狂言がありますが、この狂言が、当時を砂糖がどのように取り扱われていたか如実に描いていますので、そのあらすじを書いておきます。
用事に出かける主人が、太郎冠者と次郎冠者を呼び出し留守番を言いつけます。
主人は桶を指し示して、この中には「附子」という猛毒があるから注意せよ、と言い置いて出かけます。
二人は怖いもの見たさで桶のふたを取ってみると、中に入っていたのは砂糖なので、二人で桶を取り合って全部食べてしまいまうという御話です。
なお、「附子」というのはトリカブトの根を乾かして作られる猛毒です。
室町中期になると、琉球からも輸入され、ようやく菓子の甘味料とし使われるようになりました。
日本で砂糖が本格的に使用されるようになるのは、江戸時代からです。
江戸時代初期には、砂糖は外国から輸入されました。1641~1670年頃には、オランダから138トンから252トン輸入されました。
そして、中国からは1656年頃約1140トン輸入され、全体で約1380トン輸入され、当時のイギリスを上回り、世界一の砂糖輸入国だったと考えられています。
しかも、この砂糖を非常に高価で輸入していました。
ポルトガル商人がマカオで買い入れた砂糖が日本では10倍~20倍で売れたとも言われています。
こうした高価な砂糖が輸入できたのは、日本で豊富な銀が産出されたからです。
このような高価の砂糖を、いつまでも輸入に頼るのではなく、国内で自給できるようにしようとしたのが8代将軍吉宗です、
8代将軍徳川吉宗は、 サトウキビ栽培を奨励し、関東から九州に至る太平洋沿岸や瀬戸内沿岸で サトウキビが栽培されるようになりました。
やがて、讃岐では、独自の方法で「和三盆」を製造できるようになりました。
こうして、幕末にかけて、讃岐、阿波、和泉などでの生産量が増加し、安政5年(1858)には国産の砂糖は1万3374トンに達し、国内需要をはぼ充足できるほどになりました。