「徳川慶喜屋敷跡」は、巣鴨駅の駅前にあります。巣鴨駅から白山通りを横断歩道で越えて徒歩1分で到着します。
説明板は、白山通り沿いの歩道に建てられていますが、ローソンの目の前に建っていますので、ローソンさを目印にするとすぐに見つかります。
徳川慶喜は、新政府から慶喜追討令が出されたのを受けて、寛永寺、水戸講道館で謹慎した後、静岡で謹慎し、謹慎が解除された後も静岡で暮らしており、東京に戻ったのは明治30年でした。
そして、徳川慶喜は、明治30年から4年間、巣鴨に住んでいました。
慶応4年の鳥羽伏見の戦いでの敗北後の、徳川慶喜の足取りの概略を書くと次のようになります。
徳川慶喜は、慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れた後、1月6日には、会津藩主松平容保や桑名藩主松平定敬などごく少数の要人とともにこっそり大坂を軍艦で脱出し、12日に江戸に逃げ帰ってきます。
その1か月後の2月12日に、 江戸城を出て上野寛永寺大慈院に謹慎し、江戸城が無血開城した慶応4年4月11日には寛永寺を出て水戸に行き弘道館にて謹慎をしました。
そして、閏4月29日に徳川家は田安亀之助が相続することとなり、5月25日 徳川家達は駿府70万石に封じられました。
これに伴い、7月19日 慶喜、水戸より海路駿府に移り、23日に静岡にある宝台院に入り謹慎しました。
翌明治2年9月28日慶喜は、謹慎が解除されます。
そこで、10月5日に、静岡の 紺屋町の元代官屋敷に居を移します。
明治4年8月27日、徳川家達は東京に転居しますが、慶喜、引き続き静岡に止まりました。
そして、明治30年まで、静岡で暮らすのですが、政治には全くかかわらず趣味の世界に没頭し悠々自適の生活を送ります。
慶喜が趣味としたものは、鷹狩り、投げ網、狩猟、囲碁、自転車、写真など多岐に亘っていることで有名です。
明治21年3月6日には、静岡市の西草深町227番地の新しいお屋敷に写っています。
そこで約10年を過ごした後、巣鴨の地に移り住んだのは明治30年11月19日のことです。
巣鴨に移った翌年3月2日には皇居に参内し、明治天皇に拝謁しています。
徳川慶喜の巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、奥行きは約200mありました。
(右二段目写真参照)
庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたといいます。
しかし、明治34年に、小日向第六天町(現文京区小日向一、二丁目)に転居しました。
徳川慶喜の小日向の屋敷跡は、現在国際仏教学大学院大学となっています。
転居した理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのことだそうです。
徳川慶喜は、第六天町に転居した後、大正2年に享年77歳でなくなっています。