前回の「軍師官兵衛」では、荒木村重の謀反について描かれていました。
天正6年(1578年)7月、荒木村重は、突然、織田信長に謀反を起こしました。
「軍師官兵衛」では、織田信長は、荒木村重を信任していたにもかかわらず村重が謀反を起こしたというトーンで描かれていました。
それでは、なぜ村重は謀反を起こしたのか知りたくて、荒木村重について書いた書物を探しました。
しかし、戦国史の中では、荒木村重の謀反は結構重大事件だと思いますが、これ荒木村重について書いた物が、意外と少ないのに驚きました。
その少ない本のどれをとっても、荒木村重の謀反の理由は次の2説を代表に諸説ありますが、本当の理由はわからないというものでした。
(1)村重の家臣の中川清秀の家来が石山本願寺に兵糧を運び込んでいるのが安土に知られたため
「軍師官兵衛」で描かれていたのはこの説によるもの
(2)謀反は戦国武将の習いで去就は定まらないものだ、村重も、その思惑によって方向を転換したため
徳富蘇峰が「近世日本国民史」で主張しているそうです。
(3)奇想天外な説に、、明智光秀の謀略説というのがあります。
それによると、明智光秀は、後年、織田信長を倒すためには、近くに荒木村重がいたのでは邪魔になると考え、村重に謀反を起こさせたというものです。
「陰徳太平記」に書かれている説だそうです。
村重の謀反に至る全体の流れも、概ね次の通りで、「軍師官兵衛」で描かれていたものとほぼ同じです。
天正6年10月20日、大坂天王寺砦を守る細川藤孝から織田信長に、村重が毛利と通じて謀反をおこすという報告が入り、翌日には諸方面から同様な報告が届きます。
織田信長は驚、「不実におぼしめされ、何篇(なへん)の不足侯や」として、明智光秀、松井友閑、万見千千代を有岡城に派遣しました。
なお、村重の嫡男村次の妻は、明智光秀の娘で、有名な細川ガラシアの姉にあたる倫子です。
「軍師官兵衛」で、信長が光秀に対して「縁続きである」と言っていたのはこうした関係があったためです。
村重は、三人の事情聴取に対して、「謀反の考えはない。安土に行って釈明する」と述べたので、三人は安堵して信長に復命しました。
そして、10月23日に村重は 嫡男村次とともに安土城へ向かいました。
しかし、恭順を示そうとする村重に対し、途中で、茨城城主中川清秀や家老の荒木久左衛門などから「信長は一度疑いを持った者は絶対許さない。一度謀反の噂がたった以上許されることはないだろう」と言って安土に行くことに反対します。
そうした時に、安土にいた家来から「安土では、村重が到着したら取り押さえられ処分される模様である」との情報が伝わります。
そのため、村重は、やむをえず有岡城に帰り籠城することとなったというのです。
史料価値が高いと言われる「信長公記(しんちょうこうき)」には、村重の謀反について、次のようにかかれています。
十月廿一日荒木摂津守、逆心企つるの由、方々より言上候。
不実におぼしめされ、何篇の不足侯や、存分を申し上げ候はゞ、仰せ付けらるべき趣にて、宮内卿法印、惟任日向守、万見仙千代を以て仰せ遣はさるるのところに、少しも野心御座なきの通り、申し上げ侯。
御祝着され、御人質として、御袋様差し上げられ、別儀なく侯はゞ、出仕侯へと、御諚侯と雖も、謀叛をかまへ侯の間、不参侯。
「信長公記」には、このように荒木村重が謀反を起こしたことは記録されていますが、謀反を起こした理由は書かれていません。
それは、織田信長やその側近くに仕えた人たちも、村重の謀反の理由はわからなかったためだろうと言われています。