今回は、毛利の援軍がこないことに我慢しきれなくなった荒木村重が、天正7年(1579)9月2日毛利の援軍を自ら要請するために有岡城を抜け出して、嫡男荒木村次が守る尼崎城に入城しました。
しかし、城主自らが城を抜け出すようでは、有岡城を守りきれるはずがありません。
まもなく、織田軍の総攻撃を受けて、10月19日、有岡城が開城します。そして幽閉されていた黒田官兵衛が、栗山善助たちに救出されるまでが描かれていました。
さて、荒木村重が、織田信長に背いたのは、毛利の援軍があることになっていたからです。
これは、荒木村重だけでなく、別所長治や小寺政職も事情は同じでした。
しかし、毛利は、荒木村重や別所長治、小寺政職に対して援軍を送りませんでした。
実は、これは毛利としては、援軍を送りたくても送れなかったのかもしれません。
その要因として、大きな要因が二つあります。
一つは、備前の宇喜多直家の寝返りです。
もう一つが、大坂湾内の木津川口での毛利水軍の敗北です。
このうち、 宇喜多直家の寝返りについては、「軍師官兵衛」で描かれていました。
しかし、毛利水軍の敗北については、全く触れられていませんでした。
そこで、今日は、毛利水軍の敗北について書きます。
木津川口の戦いは、2回あります。
第一次木津川口の戦いは、天正4年(1576)に、石山本願寺へ兵糧を搬入しようとした毛利水軍と、それを阻止しようとする織田水軍との間に起こった戦いです。
この戦いで、毛利水軍が使用した焙烙火矢により、織田水軍は完敗しました。
第二次木津川口の戦いは、天正6年11月6日に起きた毛利水軍と織田水軍の間の戦いです。
この戦いで、毛利水軍は大敗をしてしまいました。荒木村重が叛旗を翻したのが天正6年10月ですので、毛利水軍は、村重の叛旗からまもなく完敗したことになります。
第一次木津川口の戦いで、毛利水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗したことを知った織田信長は、九鬼嘉隆に命じて、船に鉄を貼った鉄甲船を建造させました。
この鉄甲船は、船に鉄板を張り、焙烙火矢による攻撃を受けても燃え上がらないようにしてありました。
その上に、大鉄砲を3門備えた大型船で、鉄甲船は6隻建造されました。
そして、天正6年(1578)7月、完成した6隻の鉄甲船は、大坂湾へ廻送されました。
途中、紀州の雑賀衆が、多数の小船で攻撃してきましたが、九鬼嘉隆は敵を引きつけて大鉄砲を一斉に発射し、撃沈してしました。
天正6年9月30日には、織田信長により観艦式が行われました。
この観艦式に列席していた奈良興福寺の多聞院は、鉄甲船の大きさを横12メートル、縦22メートルあったと「多聞院日記」に書いています。
そして、11月6日、石山本願寺に兵糧を運び込もうとして、毛利水軍が木津川口付近に姿を現しました。
6隻の鉄甲船は、敵船近くに漕ぎ寄せて、毛利水軍の大将が乗っていると思われる船を大鉄砲で攻撃しました。
これを恐れた毛利水軍はそれ以上近づくことはできず、数百隻の船が退却していきました。
この戦いにより、毛利水軍は、大坂湾に侵入できなくなり、大坂湾の制海権を失とともに、播磨の海での航行に大きな危険を感じるようになりました。
これにより、毛利氏は、水軍により海上から大軍を播磨に送ることができなくなってしました。
陸路は、備前の宇喜多直家が遮断していました。このため、毛利方は、荒木村重から矢のような催促があっても、援軍を送ることはできなかったのです。
こうした事情があったため、いくら荒木村重が有岡城を抜け出して自ら毛利方に要請したとしても、毛利方は動きようがなかった訳です。