てんぷらの屋台がどんな様子だったかを描いた絵巻物に、鍬形恵斎(くわがたけいさい)の「近世職人尽絵巻(きんせいしょくにんづくしえまき)」(東京国立博物館蔵)があります。
鍬形恵斎は、北尾重政の門下の浮世絵師で、重政から北尾政美(まさよし)の名を貰いました。後に、津山藩松平家のお抱え絵師となり鍬形恵斎と名乗りました。
「近世職人尽絵巻」は文化2年(1805)刊行の絵巻物で、様々な職人の様子を描いたものです。
屋台の前に、男、女、子供がそれぞれ一人います。男は頬かむりをしていますが、よく見ると腰に2本指していますので、武士ということになります。
これを見ると、当時屋台で売っている串に刺したてんぷらの揚げ立てを武士も買って食べていたことになります。
子供の前には大どんぶりが置いてありますが、これは天汁をいれた丼だそうです。
【「江戸独買物案内」】
てんぷらは、江戸時代には、店舗を構えて売るようなことはなかったようです。
文政7年に出版された「江戸買物独案内」の「飲食之部」には151ヶ店が掲載されていますが、蕎麦屋、鮨屋、鰻蒲焼などはありますが、てんぷら屋は一軒もありません。
「江戸買物独案内」は、江戸に不案内の人が独りででも買物が出来るようにしたショッピングガイドです。当時の有名店が掲載されている書物です。
この「江戸買物独案内」に掲載された店が一つもないということは、当時のてんぷら屋は屋台がほとんど店構えのてんぷら屋はなかったということを想像させます。
同じ屋台主体の商売の寿司屋は、「江戸買物独案内」に掲載されている店が18ヶ店あることを考えるとてんぷらの評価があまり高くなかったことを如実に表しています。
【てんぷら蕎麦と天丼】
てんぷら蕎麦は、江戸時代後期には販売されていたようです。
「守貞謾稿」には、蕎麦の説明の中に、あられ、花巻、しっぽく、玉子とじと並んで「てんぷらそば」が次のように書かれています。
『天ぷら 芝海老の油揚げ3,4を加える。』 また、『天ぷら・花巻・しっぽく・あられ・なんばん等皆丼蜂に盛る。』とも書かれています。
「守貞謾稿」は天保8年(1837)に刊行されていますので、この頃には、てんぷら蕎麦が売られていたことになります。
一方、天丼は、新橋にあった「橋善」のてんぷらの残りを利用して、蕎麦屋が明治時代に開発したものだそうです。
そして、当の「橋善」も天丼を売り出し名物になったそうです。
その「橋善」は数年前に閉店してしまったそうです。