江戸検を受けられる方は、試験直前まで気を抜かずに努力され、今までの努力の積み重ねに自信を持って、試験に臨めば、自ずから道は開けるものと思います。
頑張ってください。
さて、今日も、お役に立つかわかりませんが、「江戸の食文化」関連の記事をコンパクトに書きます。
今日の話題はお菓子で、江戸の名物と呼ばれたお菓子の代表的なものについて書こうと思います。
明日の江戸検に、この中から、出題されるとお得感があるのですが・・・・・。
それは欲張りすぎかな・・・・
浅草餅
「浅草餅」は、現在も浅草仲見世にある「金龍山浅草餅本舗」で販売されている江戸時代からの名物です。
ただし、「浅草餅」は、現在では、販売されることが非常に少なく、なかなかお目にかかれません。
「金龍山浅草餅本舗」は江戸時代には「桔梗屋」と名乗っていました。
享保の頃、当時の亭主桔梗屋安兵衛が、餡で包んだ餅を上野寛永寺住職の輪王寺宮に献上したところ、輪王寺宮は大変喜んで、「金龍山浅草餅」と名乗るようにと言われたと伝えられています。
助惣焼
「助惣焼」は、麹町の「助惣」という店で販売された「麩の焼」です。
「麩の焼」は、小麦粉を水で溶いて熱く焼いた鍋に薄く伸ばして焼き、片面に味噌などを塗って巻いたものです。
現在のクレープをイメージさせるものです。
右写真は、再現された「麩の焼」です。
「麩の焼」は千利休が好んだ菓子だったといいます。
幾代餅
「幾代餅」は、元禄17年(1704)に両国広小路の小松屋が売っていた餅です。
つきたての餅をちぎって餡をつけたものでした。
「幾代餅」という名前は、小松屋の女房が、吉原の遊女の時に「幾代」という源氏名であったことからつけられた名前です。
「幾代餅」という落語もあります。
お鉄牡丹餅
天保期に、麹町3丁目にあった「お鉄牡丹餅」が評判となりました。
「お鉄牡丹餅」は、胡麻・飴・黄粉の三色の牡丹餅だったようです。
助惣焼と評判を二分したそうで、「助惣とおてつ、近所でうまい仲」という川柳ができるほどだったようです。
鹿の子餅
宝暦・明和の頃、歌舞伎役者の嵐音八が人形町で売り始めた「鹿の子餅」も評判でした。
「鹿の子餅」は、餅に餡をきせ、そのまわりに蜜漬けした金時豆を、鹿の子まだらにつけた餅菓子だったそうです。
右写真は、現在の和菓子屋さんで売られている「鹿の子」ですが、このようなものだったのではないでしょうか。