もう「七草セット」が売られていました。最近は便利になりましたね。
ところで、「七草」は江戸時代は、「人日の節供」とも言いました。
現在、江戸検1級の過去問題の分析をしていますが、第5回の1級の問題に次のような問題があります。
五節句のひとつ正月7日の「人日」には、朝、七草粥を食べましたが、江戸では残った菜を浸した水を用いて、その年の初めてあることをする習慣がありました。それはどんなことでしょう?
い)家中の雑巾がけをする。
ろ)髪の毛を洗う。
は)墨をすり文字を書く。
は)水に指をつけてから爪を切る。
これは、「博覧強記」に書いてありますので、初級レベルの問題です。
過去に書いてある 七草粥 (江戸の歳時記) の記事をご覧いただいてもわかりますので、ご参考にご覧になってみてください。
さて、今日の本題は、「七草」ではなくて「万歳」です。
「万歳」については、「東都歳事記」、「近世風俗志(守貞謾稿)」、「絵本江戸風俗往来」、「江戸の歳事風俗誌」、「江戸の庶民生活行事事典」つまり、先日紹介した「江戸の歳事」の参考書すべてに書いてあります。
現代では、「まんざい」というと「漫才」を思い出すと思いますが、江戸時代は「万歳」と書きます。
「漫才」は、昭和の初めに吉本興業によって名付けられたようです。
万歳は、太夫と才蔵の二人がコンビを組んで演じました。
しかし、三河から下ってくるのは太夫だけでした。才蔵は江戸で雇っていました。
絵本江戸風俗往来には次のように書かれています。
万歳は三河国より、年年正月までに江戸に着す。諸侯ならびに旗本の邸へ罷り出て、新年の目出度を祝し、鼓を打ち鳴らして万歳歌をうたいて舞う。舞酣(たけなわ)なる時、伴の才蔵立ち上がりて戯れて老若の別なく座中をして大笑いを発せしむ。この才蔵の技倆は自ら別なり。まず才蔵は遠国山出しの容貌を備え、愚かに見えて痴鈍ならず、武骨中に愛嬌を含み、飽くまで質朴なるをよしとする。されば旗本屋敷の女中等恐れ憎みても面白く、その戯れを興として万歳才蔵の来るを楽しむ。これ才蔵の技倆による故、その以前は才蔵市ありて、万歳の太夫、才蔵を選び抱えしとなり。
但し、門万歳とて町家の軒下に来たり銭を乞い歩く万歳は諸家の奥に上がる万歳とは別なり
東都歳事記には、12月28日の項に、「才蔵市」について次のように書かれています。
才蔵市は当時なし、近き頃まで下旬の夜、日本橋の南詰四日市にありて、三河万歳江戸に下り、才蔵を傭ふ。才蔵は安房上総または下総古河の辺より出る。太夫才蔵の巧拙をえらび価を定めて雇ひ、正月になりて、出入の家々をまはりしなり。
名所江戸図会にも、右写真のように日本橋四日市での才蔵市の様子が描かれていて、次のコメントが付いています。
三河万歳、江戸に下りて毎歳極月(しわす)末の夜、日本橋の南詰に集まりて、才蔵をえらびて抱ゆるゆえなり。これを才蔵市といふ。
才蔵市を詠んだ川柳もあります。
塩引の中で鼓の市も立
四日市目出たい人を売る所
ただし、才蔵市は、東都歳事記に「才蔵市は当時なし」と書かれているように、東都歳事記が編纂された天保8年頃には、才蔵市はなくなっていたようです。
守貞謾稿には太夫と才蔵の服装が書かれています。
お手元に「近世風俗志(守貞謾稿)」をお持ちの方は確認してみてください。
江戸に来る万歳の扮、太夫は折烏帽子に麻布の素襖を着し、大小二刀を帯びる。素襖色定めなく、紺を専らとし、記号また定めなし。袴あるひはくくり袴、または常の袴をも着す者あり。(中略)才蔵は、侍烏帽子に素襖を着して、無袴なり。あるひは素襖なし。
東都歳事記の正月元旦の項には
三河萬歳 今日より当月中家家廻る とありますので、1月一杯、各戸を回ったようです。