そこで、今日は、松陰の江戸遊学と東北遊歴について書いていきたいと思います。
吉田松陰が、初めて江戸遊学に出たのは嘉永4年のことです。
吉田松陰が、江戸で最初に学んだのが安積艮斎です。
安積艮斎は、現在の福島県の出身で、当時超一流の儒学者でした。
安積艮斎は、長州藩江戸屋敷にある有備館の教授であったので、最初に会ったのは有備館であったようです。
安積艮斎は駿河台の小栗上野介の屋敷で「見山楼」という塾を開いていましたので、その後、「見山楼」にも通学しています。
吉田松陰の江戸遊学の一番の目的は、山鹿流兵学を学ぶということですので、山鹿流宗家の山鹿素水の元でも学んでいます。
しかし、山鹿素水は、あまり有能ではなかったようで、あまり熱心に学んでいません。
最も熱心に学んだのは、佐久間象山の塾でした。
佐久間象山は、松代藩真田家の藩士でした。藩主の真田幸貫は、老中で海防掛であったため、象山は江川英龍に西洋兵学を学び、当時江戸随一の西洋兵学者と言われていました。
ここに吉田松陰が入門します。
後に吉田松陰は、象山門下の二虎と呼ばれるようになるほど佐久間象山に心酔しますが、最初に訪問した時の印象は非常に悪かったようです。
松陰は平服で訪問しましたが、佐久間象山はそれを見咎めたという話が残されていて、松陰にとっての最初の訪問は後味の悪いものであったようです。
「花燃ゆ」でも、吉田松陰が無事佐久間塾に入門できたと小田村伊之助に報告する場面でその事について触れていました。
そして、入門した師がもう一人います。
鳥山新三郎です。
鳥山新三郎は安房の出身で、鍛冶橋近くの桶町で「蒼龍軒」という塾を開いていました。
この塾で、ペリー艦隊の乗せてもらい海外渡航をめざす計画いわゆる下田韜晦を一緒に決行することとなる金子重輔と知り合うのです。
また、東北行は桜田の長州藩邸から出発しましたが、東北から帰ってきた時に最初に草鞋を脱いだのがこの蒼龍軒でした。
さて、嘉永4年12月に吉田松陰は、親友の肥後藩士宮部鼎蔵、そして江蟠五郎と一緒に東北遊歴の旅に出ます。
この時に、過書という通行手形の発行が遅れたため、通行手形がないまま、松陰は旅に出発してしまいました。
許可なく旅に出ることは脱藩であり、当時としては重大犯罪でした。
そのため、松陰及びその家族に大きな影響をおよぼすことになります。
昨日の「花燃ゆ」でも重大事件として描かれていました。これにより、寿の結婚が破談となったというストーリーとなっています。(もちろん、これは脚色だと思われます)
それでは、吉田松陰は、なぜ通行手形の発行を待たなかったのかという疑問がわきます。
「吉田松陰」を書いた海原徹氏は、その本の中で、
自分は藩のためでなく国のために脱藩するのである。藩法は小さな法であり、自分はもっと大きな法のために行動しようとしているのだという思いがしだいに大きくなれば、もはや後戻りすることはできない。という思いから脱藩したのだろうと言います。
先日のNHKBSプレミアムでも磯田道史先生も、脱藩により罰せられるという「私」より他藩士との約束を守るという「公」を大切にしたためだと言っていました。
しかし、私は、松陰が脱藩した理由を解き明かすのはなかなか難しいのではないかと思っています。
東北遊歴は、嘉永4年12月14日に江戸を出て、翌嘉永5年4月5日に江戸に帰着していますので、5カ月を超える長旅でした(嘉永5年は閏2月があるため)。
この遊歴で、松陰は、水戸に滞在した後、会津を経由し新潟に出た後、日本海側を北上し津軽半島の先端まで行き、そして太平洋側を通って江戸に戻っています。
この中で大きな影響を受けたのが水戸滞在中に、水戸学の重鎮会沢正志斎にあったことだと言われています。
松陰は、会沢正志斎のほか、藤田東湖にも会いたいと思っていたようですが、それは実現しませんでした。
しかし、水戸での滞在で、水戸学の尊王攘夷思想に大きな影響を受けたといわれています。
また、松陰は、会津若松に8日間滞在しています。
この滞在中には、会津藩の藩校である日新館の見学もしています。
後に、長州藩と会津藩は仇敵の間柄になりますが、この頃は、まだ犬猿の仲ではなかったので、こうした見学も許されたのでしょう。